心理学と文化のこと

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純粋に、物の重さや長さ、速度や波長といったものを取り扱う物理学とは違い、心理学や精神医学の場合、人の心を取り扱うので、ちょっと注意を払う必要があります。

特に、人間の知覚は、心理状態に影響を与える一方で、心理状態からも影響を受けます。見たくない・聞きたくないという心理状態から、生理的には知覚していたとしても、認識できないということもあるでしょう。
また、個人の心理状態だけではなく、その人が生まれ育った「文化」の問題も大きく影響してくるのではないかと思います。

身近な例としては、波形的には、「R」と「L」の音は全然違うのに、多くの日本人が「ら」行の音として、区別が難しい。
他にも、普段使っている言語によって、認識しにくかったり、発音しにくい音というのも出てきます。
訓練・練習をつめば、いろいろな言語を話すことはできますので、なれの問題だということも言えるのですが、心理状態への影響というものも当然あるでしょう。

面白い話としては、マゼランがフエゴ島を訪れたとき、島民はその船に気付かず、島のシャーマンだけが気付いたという話があります。島の人達の常識からすれば、マゼランの船団というのは考えられないほど巨大で、完全に認識からシャットアウトされてしまったらしいんですね。これは、普段は常識の外にいて現実離れしていると思われているシャーマンと、一般人との間に、現実の認識について逆転が起こっている面白い例です。

また、虹の色と言えば7色と思い浮かぶ人も多いかと思いますが、実はこれはニュートンが提唱してからの認識で、日本でも江戸時代以降に西洋科学を取り入れるまでは5色、沖縄でも2色という認識だったらしい。今でも国によって認識が違ったりします。

もちろん、色や光の認識は、桿体・錐体と呼ばれる視覚細胞によるものであり、そこに異常が見られると、色盲や色弱のような症状がでたりもしますので、純粋に科学的分析の対象になるわけですが、その意味付けとなると、文化的背景も強く関わってくることになります。

例えば「白」と聞いたときに、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか?
純粋や清潔みたいなイメージを浮かべることも多いですが、「死装束」というくらいで、昔の日本では、死を表す色でもありました。
このあたりも文化の問題で、いろいろな解釈やイメージがでてきそうです。

もっと面白い話としては、古代ギリシャでは、
「ワイン色のエーゲ海」「ワイン色の羊」「緑色に滴る血と涙」
なんていう表現があったようです。

「はい??(。´・ω・)?」

みたいな表現ですよね?

「緑色」は、豊かさ、みずみずしさ、生命力を表し、「紫色」は、流れたり動いたりするもののイメージだったようです。

日本でも「黄色い声援」みたいに、色を使った表現ってありますよね。

共感覚のように、通常の人間には、音や質感などでしか感じられない感覚に色が乗ってくるということが、ひょっとすると、ある文化に属する人たちには普通ということもあるのかもしれません。
有名なところでは、天才詩人アルチュール・ランボーの詩にそんな詩があります。

「母音」

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

E、蒸気や天幕のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、
I、緋色の布、飛散つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。

U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
学者の額に刻み付けた皺の静けさ。

O、至上な喇叭らつぱの異様にも突裂く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!
(中原中也 訳)

その他にも、人の感覚や言葉と文化の関係って、奥深くて、ピダハンというアマゾンの民族が使っている言葉には、東西南北のような方角を表す言葉が無い、ありがとうという言葉もない、過去・未来という概念もないなど、我々からすると、驚くような文化を持っています。
そういう人たちにとって、我々の文化・文明の中で育まれてきた心理学などは、どのような意味を持つのか?

ちょっと興味深くはあります。

色

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