願望実現と自分と他人

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「願望実現」や「引き寄せの法則」について考えるとき、どうしても、自分と他人の関係について考える必要が出てくる。

よく「他人と過去は変えられない」などということが言われるが、「自分の願望」と「自分以外の人の願望」が矛盾を発生させる場合はどうなるのか?
単純に「思いの強い方」の願いが叶うと言ってしまうこともできるが、もう少し、深いところまで考えてみたい。

まず「自分の願望」とは言うが、それはいったい何なのか?

自分が欲しいもの?なりたい自分?

いろいろな表現はあるが、そもそもそれは本当に自分自身が望んでいるものなのか?

人は自由意志によって、色々と考えていると思い込んでいるが、実際のところは、他の人の思考に影響を受けたり、環境によっていろいろな価値観を植え込まれている。

「自分の願望」とは言っても、実は単に「世の中でそれが良いと言われている」ことに反応しているだけかもしれないのだ。

もう少し考えてみよう。

そもそも「自分」というのは何なのか?

自分の体が自分なのか?心、魂が自分なのか?

細胞は一定期間で入れ替わるし、生物的な成長によって、身長も体重も変わる。見た目も変わる。

オブジェクト指向的設計で考えると、あるクラスに対するインスタンスが自分自身であり、それに属するパラメータが変わっていってもインスタンスが消滅しなければ、それが自分なのだということもできる。

せっかく、オブジェクト指向なんていうことを書いたので、抽象化について考えてみると、例えば、「自分」というものを規定した時に、日本人で生年月日は何年何月何日で男性で、氏名は〇〇で…という感じで具体的な自分が決まるわけだが、ちょっと抽象度をあげると、同じ日本人なんだから、とか、同じ男性なんだからとかいうことになる。

「自分の願望」の内容について抽象度を上げると、最終的には、自分自身が幸せを感じるところにつながっていくのだと思うが、願望を実現させる「自分」についての抽象度を上げていくと、自分の幸せという限定された願望ではなく、家族の願いとか、地域の願いとか、日本人としての願いとか、人類としての願いとか、だんだん大きな願いになってくる。そうすると、「自分」と「他人」の願いという境界線も曖昧になってくる。

要するに「自分」の願いということを考えたとき、「自分」を世界のどこで切り取るかという問題になってくるわけで、それによって、願いも変わってくるだろうし、その実現のさせ方も変わってくることになる。
もちろん、抽象度を上げたときには、自分の願いと他人の願いに矛盾が起こるなんていう問題も無くなることになる。

ユングの集合的無意識につながる部分もあるが、例えば普段、顕在意識の中で暮らしているときには「自分」と考えているものは、他人とは全然別個の人間になる。

集合的無意識1

図1

しかし、自分自身の意識を高め、抽象化を進めて行くと、図2のように、他人と自分との境目が曖昧になり、より広い意識を持つことになる。それが「自分を世界のどこで切り取るか」ということ。

集合的無意識2

図2

そこが理解できるようになれば、他人と自分の願望の矛盾についても理解できるようになっていくはず。

次は、ガイアについてでも書いてみることにしようかな。

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