昨日書いた「嫉妬という感情」という記事を、黒猫さんにリブログしていただきました。
そのブログへのコメントで、考えたことをちょっとまとめておきます。
僕は、そもそも、人と人を比較することに殆ど意味を見出しません。
強いて言えば、その比較によって、その人の特徴・特性(キャラクター)を浮き彫りにし、その人のことを分析(と言ったら語弊がありますが)することくらいにしか使えないかなぁと思っています。
もちろん、仕事上のスキル評価などでは、ある評価軸に沿って比較し、順位をつけるということはあるでしょう。
しかし、その人の人格評価、その人の行動そのものをどう感じるか、考えるかということに関しては、あまり他の人との比較というのは役に立たないと思っています。
もう少し詳しくいうと
誰かがスピード違反をして捕まったとします。
捕まった人が警官に対して
「他の人もスピード違反をしているのに、なぜ自分だけが捕まるのか!?」
と、文句を言ったとしても意味はなく、その人がスピード違反をしたという事実はなくなりません。
あくまでも、その人の行動が問題視されているわけです。
同様に、何らかの悪習が続いていて(よくわかんないですけど、談合とか?)、それに対して、
「それは法律に違反しているし、顧客のためにならないから今後やらない方が良い」
と誰かが声を上げたときに、
「いやいや、皆やってるから」
という意見が出たら、第三者は、どちらが正しい判断だと思うでしょうか?
(もちろん、そのような慣習が続いている原因は別途、考える必要があります)
皆がやっているから、他の人もやっているから、というのは、行動や意見の正当性とは別問題です。
逆に言えば「他の人もやっているから」という意見しか持てない人は、自分自身で、行動自体の判断が出来ず、自分で物事を考えられない、自分の意志を持っていない人とも言えます。
また、同じように比較によって人の優劣を決めたがる人、勝ち負けを決めたがる人は
「あの人よりもお金持ち」とか「あの人よりも出世している」
といったことを凄く気にしますが、それは単にある一面での見方でしかなく、その人自身の価値、人格的価値とは全く関係ありません。
以前、アメブロの方で書いた記事(”★インドの聖者に現状の苦しみを訴えてみた。”だってさ。アホか(笑))で、
「間違って人を殺めてしまったとしても、母親は子供のことを愛しているでしょう」
ということを書きました。
その人の行動、現在の状態は、その人自身の価値を決めるわけではありません。
「ありのままで良い」
というのは、人との比較ではなく、その人自身の価値を認めることだと思います。
(そして当然のことながら、自己中心的で身勝手な行動の免罪符でもありません)
他の人との比較の中でしか、自分自身、あるいは相手の価値を認められないって寂しいことだなぁと思います。
「ありのままで良い」という言葉は、
「『自分が』ありのままで良い」
のではなく
「『あなたは』ありのままで良い」
と、相手の人格を認めてあげるときに使いたい言葉ですね。
今度は、「自分が」という自己承認欲求の発露について、ちょっとまとめてみたいと思います。