自立するということ

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自分のポリシーというか、常に心掛けていることとして「自立」した人生というものがある。
世の中には、学園ドラマの先生のセリフのように
「人という字は~、ヒトとヒトが支え合って~」
みたいなことを言って、他人に依存する人生を良しとするようなことを勧め、人の自立心を削いでいってしまうような人間が結構いるし、それ自体は、言われた自分も楽なので、無批判にそれを受け入れてしまう人も多いようだ。

でも、それは2つの意味で間違い。

まず一つ目。
「人」という字の成り立ちは、下の図が表すように、単に横向きの人を描いた象形文字からできていて、別に人と人が支え合っているわけではない。

人という字

そして二つ目。
 「助け合い=持たれ合い」ではない
ということ。

持たれ合いの関係というのは、「共依存」と呼ばれ、まさにお互いに依存しあっている関係であって、協力しあうという関係ではない。
個々人が自立し、お互いを尊重し合って、協力し合う関係は、シナジー(相乗効果)を生み出し、1+1が3にも4にもなるが、共依存の関係は、1+1が2にもならず、場合によっては、1にもならない関係になってしまう。
共依存の関係は、例えば「アルコール依存症の夫と、その夫を支える妻」や「ギャンブル依存者とその借金の肩代わりをする家族」など色々なものがある。要は、一見、献身的だが、その裏には支配的、生殺与奪の力を自分が持っているという自己中心性が隠されているという、お互いを利用しあっている関係に過ぎない。

人間は弱いもので、楽な方、楽な方へと流れていきます。
それを避けるためには、いかに長いスパン、広い観点で自分の人生・世の中を見ることができるかにかかっています。それが無いままに、自分が楽になりたいという気持だけで、誰かに自分の責任を押し付けたとして、その先に待っているものは何なのかを考えてみる必要があるのではないかと思います。

「自由である」ということは、「自立している」ということと、非常に近い意味を持っているように思います。
逆に、何かに「依存している」ということは「不自由である」ということを意味しています。何かが無ければ、誰かがいなければ生きていけない状況は、とても自由であるとは言えないでしょう。
ただ、自由には、当然責任が伴います。
「自由になる」ということは、誰かに責任を押し付けるということではありません。

古い漫画ですが、銀河鉄道999という漫画で、999が停車した惑星の中に「プラネットベガー / くれくれ星」とい星があります。
この星の住民は、全てがルンペン、乞食、ものもらいで、お互いがお互いに依存しあっている星です。
一人一人の意識が、自立に向かわないと、最終的には、この星のような世界になってしまうでしょう。

誰かやってくれるから自分はやらなくても良い
という考え方はもちろん、
何故、自分が、そんなことをやらなければならないんだ?
という思いも、上の考えの裏返しに過ぎません。

個人個人が自分の行動に責任を持ち、お互いに協力しあえる(依存しあうではない)、そんな世の中になれば、社会も人間も、一歩、進化の道を踏み出すのではないでしょうか。

もう、何十年も前、自分が中学生の頃だったと思いますが、武者小路実篤の「一個の人間」という詩を読みました。非常に感銘を受け、今でも自分が自立した人間ということを常に考えている背景には、この詩を読んだことがあるのかなとも思います。


『一個の人間』 武者小路実篤(「武者小路実篤詩集」より)

自分は一個の人間でありたい。
誰にも利用されない
誰にも頭を下げない
一個の人間でありたい。
他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかわり自分もいびつにされない
一個の人間でありたい。

自分の最も深い泉から
最も新鮮な
生命の泉をくみとる
一個の人間でありたい。

誰もが見て
これでこそ人間だと思う
一個の人間でありたい。
一個の人間は
一個の人間でいいのではないか
一個の人間

独立人同志が
愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。
それは実に美しいことだ。
だが他人を利用して得をしようとするものは、いかに醜いか。
その醜さを本当に知るものが一個の人間。

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