同じ素材を使っても、こんなにも違うのか

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料理の話ではありません(笑)。

心屋くんのブログやなんかに書いてあること、書いている個別の素材は、それぞれ納得できるものだし良いことも書いていると思えることがあるんだけど、どうしてこういう結論が出てくるのか?

最高級の食材を使っているのに、それをこねくり回して、不味~い料理を作ってしまうようなものでしょうか?
まあ、味覚なんか人それぞれですし、僕が不味いと思ったからといって、他の人は美味い美味いと食べているかもしれません(知らんけど)。

範馬勇次郎的に言えば
「上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき思想!!!」

範馬勇次郎

今回の心屋くんのブログです。

まあ、色々と書いてあります。

この、無駄に改行が多かったり、空白が多かったりする文章は、僕にはすごく頭が悪そうに見えるので書きたくないのですが、最近は、スマホとかで見る人の方が多いですし、無駄な改行のおかげでブログの滞在時間も長くなるでしょうから、アメブロ的に美味しいんですかね?どうでも良いけど(笑)。

で、書いてあることを簡潔にまとめると

  1. 自分が自分を責めない限り誰もあなたを責めない。責められるということは罪悪感があるということ。
  2. あなたに酷いことをしてくる人は、あなたに攻撃されたと感じているから酷いことをする
  3. 心の中に「罪悪感」「負い目」があるから「必要以上に」反応する
  4. 罪悪感を無くして、許可を与えよう

ということになろうかと思います。
(説明しやすくするために番号を振らせて頂きました)

これだけ見るとわかりにくい人もいるかもしれませんが、自分なりに、ちょっと説明を加えていきます。

まず

1.自分が自分を責めない限り誰もあなたを責めない

という部分。

これは、そのあとにも書いているように、自分自身が今まで培ってきた価値観の中で罪悪感と感じているところを指摘されれば、それを「責められていると感じる」ということでしょう。
これは3.とも関連するのですが、自分が負い目に感じていることを指摘されれば、たとえそれが「攻撃」ではなく単なる「意見」、「注意」、「指摘」であっても、あるいは単なる「状況確認」であっても、自分が責められているように感じることはあると思います。逆に自分がしたことに罪悪感が無ければ、たとえ責められても言われている意味がわからず「責められている」とは感じられず、単にうるさいこと、訳のわからないことを言われているとしか思わないということもあるでしょう。

人は、自分が見たり聞いたりしている外部の状況に反応しているのではなく、外部の情報を取り入れて自分の心の中に作り上げた世界像に反応しているということは心理学的に言っても確かです。ですから、過去のトラウマや体験などから、必要以上に恐怖感を抱いたり苦手意識を持つということは普通にあります。

WordPress中心に読んでくださっている方は、amebloの方もどうぞ…。 (こちらには書いていないスピやカウンセラーの問題点について...

そう言えば、私が会社員の頃、何かトラブルがあって、その状況を確認しようとすると開口一番

「俺じゃねーよ!俺のせいじゃね―よ!」

と言い出す同僚(先輩でしたが)がいました。
「別に、あなたを責めたり、犯人探しをしているわけではなくて、トラブルを収束させるために状況確認しているだけだ」
というのですが、とにかく自分は悪くないということを訴えるんですね。
それまでどういう経験をしてきたのかは知りませんが、仕事のできない人だったなぁ…(遠い目)。

話を戻します。

人は自分の心象風景に反応する傾向にありますから、相手の言っていることを意図通りに受け取れない可能性は当然あります。
ですから、人は相手の言っていることを理解しようとし、コミュニケーションを取り、相手の立場を想像し、相手の立場で考え、より良い関係を築こうとするわけです。

ところが心屋くんが書いていることの2つ目。

2. あなたに酷いことをしてくる人は、あなたに攻撃されたと感じているから酷いことをする

と決めつけてしまい、自分が酷いことをされている(と感じる)のは、相手に問題があるのであって、自分に原因があるわけではないと思考を止めてしまうと、本当に相手が伝えたいことを見誤ってしまう可能性があります。

もちろん、自分に対して、相手が理不尽に酷いことをしてくるということもあるでしょう。
ですが、相手が酷いことをしているのではなく、上に書いたように、単に自分が酷いことをされている受け取っているだけの可能性だって大いにあるわけです。
相手の価値観に合わないから責めているのではなく、僕の昔の同僚が聞かれたように、単に「状況確認しているだけ」かもしれませんし、もっと言えば、自分が不利益を被らないように忠告してくれているだけなのかもしれません。

それは以下のブログで僕の息子くんが1歳の頃に母親に意地悪をされたと訴えたのと同じ。

こんなのがネットに流れてきたので、ちょっと調べてみた。 ああ、ここのところ、ネット上での批判が多すぎて、ちょっと疲弊しているのでしょう...

ある意味、とても幼稚な思考パターンと言えるでしょう。

そして、4. で、罪悪感を無くせば自分は自分を責めないし、自分に酷いことをする人はいなくなるという結論に至るわけですが…。

心屋くんの言っていること全部が間違いなわけじゃない。

上でも説明したように、自分の方が勝手に「罪悪感」を感じて責められていると思い込んでいることだってあるでしょう。

例えば、病気がちで仕事を休みがちな人がいたとします。
その人が「仕事を休む」ということに対して罪悪感を持っていたとして、同僚から
「明日も仕事休むの?」
と訊かれた時に、単に確認に過ぎないことが、本人は「攻撃された」「酷いことをされた」と感じるかもしれません(そして確かにそういう人は実在すると思います)。
そういう人が「仕事を休む」ということに対する罪悪感を無くせれば、確認は意図通り確認として受け取られるでしょう。
しかし、その人が「罪悪感を無くそう」という考え方を拗らせて、「好きに仕事を休んで同僚に迷惑をかけても気にする必要はない」と思い込んでしまったとしたらどうでしょう。
「体調が悪いわけでも無いのに、自分の仕事を人に押し付けて会社をサボらないでください」
という注意があっても、注意として受け取れなくなるかもしれませんし、言われている意味すら理解できなくなるかもしれません。

今までの常識を疑ってみる
価値観を変えてみる

ということは、より良い生活を送り、社会を良くしていくためには大切なことです。

一例を上げると、今、話題になっている男性の育児休暇なんかもそうでしょう。
昔の価値観に生きている人の中には、男性は外で働くのを最優先にし、育児休暇を取るなんてもってのほかという人だっています。
もしかしたら、育休をとった男性は、そういう人に理不尽に責められるかもしれない。

でも、それは責められているのではなく、男性の育休は不要という意見をいっているだけかもしれない。

男性が育休を取ることに対する罪悪感を捨てれば、育休も取りやすくなりますし、育休取得も普及すると思います。

しかし、現時点でそれを快く思わない人がいるというのはどういうことなのかをしっかりと考える必要はあります。

こう書いていくと、

「なんだこいつ、ぢんさんと同じこと言ってるじゃねーか」

とか思う人もいるかもしれませんが、何度も書いているように、価値観を見直すことは時に必要ですし、それに反対しているわけではありません。
人や社会に迷惑をかけることだけを気にしています。

罪悪感を無くす

ということで、価値観が変わり生きやすくなることは実際にあるでしょう。
しかし、それはいつ、いかなるときも成り立つわけではなく、

  • 必ずしも自分に要請されているわけでもないことを自分で必要だと思い込んでいる時
  • 社会全体の価値観が変わっていっている時

には有効な手段になり得ますが、本来、社会生活を営む上で必要な罪悪感を捨て去るということは、単純に「罪を犯す」という可能性を高めることになります。最低限、そこだけは念頭に置いておく必要がある。

そういう意味で、心屋くんは、良い素材をいっぱい使っているのにも関わらず、なぜこんな「罪悪感を無くそう」というような誤解を受ける可能性のある表現を使うのか。

雑なんだな…。

先程の男性の育休取得を例にすると、

自分は育休を取ることに対して罪悪感を捨てました
 → 育休を取った自分に対して酷いことをする人はいなくなりました

っていうことには単純にはならないと思いますし、理不尽なことを言ってくる人もいるでしょう。それまでの価値観に従った意見を言ってくる人もいるでしょう。

それを

自分は罪悪感を捨てたので無事育休が取れました。自分に酷いことをしてくる人のことも気にしません。あとは知らん

だと、勿体ない。
自分と異なる意見は、自分や社会を進化させるきっかけになります。
(おっ!自分のブログのタイトルっぽくなってきた)

何となく今まで見てきた心屋くんや、その信者様の言動や反応を見ると、さまざまな意見に対して

「批判」、「非難」、「攻撃」

と受け取ってしまうことが多いのかなという気がしています。
心屋くん自身が言っているように、それは彼ら・彼女らの「罪悪感」に起因するものなのかもしれませんし、元々、そういう性格なのかもしれません。
それはわかりませんが、僕はそのような「認めさせるか、認めさせないか」というような「勝ち負け」でしか人と人の関係を見られないのって可哀想だなと感じます。

自分は家庭や子供のために時間を使いたい、家族にも負担をかけたくないので育休を取りますと言い
反対する人は、仕事をしている同僚や会社に迷惑をかけないように育休は取らないほうがいいと言う

そこにコンフリクトが生まれるわけですが、どちらかの意見が正しくて、他方が間違っているというだけではなく、そのような相反する意見から止揚に至るための道を探ることが社会をより良い方向に導くためには有効であるはずです。
(どこかの知事が言って話題になったアウフヘーベンってやつ)

それを実現するためには、先日書いた記事にあるようなアサーティブなコミュニケーションというのが重要になると思いますし、それを意識するようにしないと、単に罪悪感を捨て、社会から切り離された人間を増やしていくだけのような気がします。

重要保存記事と書いてあったので、どんなことが書いてあるかと読んでみた。 【魚拓】★【重要保存記事】心屋が今までの心理学と一番違うところ...

【追記】

結局、心屋くんって、いろんな場面ごとに条件づけしないと言えないような事例を、あたかも普遍的な真理であるかのようにブログで語るのが一番の問題なんだと思う。

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料理に失敗した女性

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