カルトの一般化・歪曲・省略について

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WordPress中心に読んでくださっている方は、amebloの方もどうぞ…。
(こちらには書いていないスピやカウンセラーの問題点についてもいくつか記載しています。コメント含めて読んで頂くと良いかと思います)

NLPでは、人間の認識に対して、

  • 一般化
  • 歪曲
  • 省略

の3つのフィルター作用があると言われています。

「一般化」は、一部にしか成り立たない事柄をあたかも全てに当てはまるように捉え直す、あるいはカテゴライズするような働きです。

例えば、

「クラスメートは皆、このゲームを持っている!だから買って!」

みたいなことを子供が言っていたとしましょう。ところが、実際に誰が持っているか尋ねてみるとA君とB君とC君の3人だけだったりすることはよくある話です。

これは別に嘘をついているわけではなく、具体的なことを尋ねられるまで、子供にとっては「クラスメートはこのゲームを持っている」ということは事実だったわけです。

「歪曲」は、本当は事実ではないことについてあたかも事実であるように捉え直してしまうこと。

こちらの例としては、ジンクスなどが挙げられることが多いです。
「黒猫が横切ったら悪いことが起こる」
などというのは典型的な例ですが、黒猫が横切るのと悪いことが起こるのは、普通は因果関係はないですよね。
その他、「あの人が笑ったのは、私が何か失敗したからに違いない」という思い込みも認知の歪曲が起きている可能性があります。単に別の知り合いに笑いかけただけかもしれません。

「省略」は、事象の一部を省略して認識・言語化してしまうことです。

例えば、「彼は努力が足りない」とか「この商品は高い」などという場合、何に対してどのようなことをしているから努力が足りないのかという情報や、何に対して高いのかという比較対象が省略されてしまっています。

「一般化」「歪曲」「省略」のどの作用も、人間が生きていくための情報の整理や学習のために必要なものですが、適切に使っていかないと誤認識や判断の間違い、コミュニケーションミスを引き起こしてしまいます。

タイトルにあるカルトの一般化・歪曲・省略についてですが(カルトという言葉が強すぎるなら、スピ集団でもエセカウンセラー集団でも何でも良いですw)、この一般化や歪曲などが巧みに使われていると言って良いと思います。
(心理学は悪用すると怖いですね(笑))

某心○仁之助さんのことについてちょっと考えてみましょう。

彼は最近「子供を叩いても良い」「『死んでも良い』と言っても良い」のような発言で猛批判を受け、ネットでも炎上を重ねています。

それらの批判に対し、感情的な批判は「はい、はい」と適当に受け流していても良いのですが、中には

「心○メソッドで救われた人もいるんです」

という主張もあります。多分、それはそうでしょう。
しかし、「救われた人もいる」=「救われる」ではないというのは、「一般化」を考えればすぐにわかるでしょう。少なくとも一般的に語れるくらいに理論立てる、あるいは実績を作るのでなければ安易に展開すべきではないですし、「救われなかった」「それによって酷い目にあった」などという人がいるのであれば、反証として真摯に向き合うべきです。

「歪曲」に関しては、上に書いたジンクスの他にも、場合によっては狂信的な信者が目の前のできごとを自分に都合良く解釈したりすることにもつながります。恋は盲目、あばたもえくぼというやつですね。
全く関係ない事柄を結びつけたりするという意味では、

「あなたが子供を叩いてしまうのは、あなたの子供が叩かれるために生まれてきたから」

というのも、まさにこの「歪曲」に当てはまると言えるかもしれません。

「省略」については、逆に心○批判をしている人たちについて考えてみましょう。

「心○は絶対ダメ!NG!」と言っていたとして、彼のどこがダメなのか?どの発言がダメなのか?どういう行動がNGなのか?について主張すべきでしょう。
彼の全人格・存在そのものがNGと言っているのだとしたら「そのままの自分で良い」「何をしても良い」と言っている彼の裏返しにしかなっていません。
同じレベルで批判しても、多分、彼や彼の取り巻きの心には響かないでしょうね。

別に、相手を変える必要は無いですが、単に主張のぶつかり合いでは虚しい結果が待っているだけです。

ここで紹介した一般化・歪曲・省略について、頭の片隅にでも少しとどめておいていただき、もしカルトっぽい、スピ集団っぽい、エセカウンセラー界隈っぽい人が何かを主張してきたら(そして、もし多少でもその人達とコミュニケーションを取ってみたいと思うのなら)、以下のことを意識して話してみてください。

  • 5W1Hを意識して訊いてみる(誰が?いつ?どこで?どのようになど…)
  • 具体的な表現をする、してもらう
  • もし、そうじゃなかったら?ということを考えてみる、考えてもらう
    → ~べきという考えや、当たり前という考え方に自由度を与えてみる
  • 理由を考える、考えてもらう
    → どうしてそう思うのか?そう信じているのか?

これを意識するだけで、考え方に自由度が出て、少しずつ楽になってくると思いますよ

色眼鏡で見る

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コメント

  1. ちよ より:

    こんばんは、ちよです。
    こちらはITCひでぽんさんのブログですよね?
    ゆりさんのお庭でいつもお世話になっております。
    こちらの記事は時折拝読させていただいてますが、今回はアメブロの黒猫さんのコメントから流れて来ました。(笑)
    どうぞよろしくお願いします。

    〉〉彼の全人格・存在そのものがNGと言っているのだとしたら「そのままの自分で良い」「何をしても良い」と言っている彼の裏返しにしかなっていません。

    その通りだ!と思い反応させていただきました。
    ウヨクでもサヨクでも自分と反対というレッテルだけで罵る輩と変わらない。
    自分もそういうところあるかも、と反省です。

    元記事はわかりませんが先日、スイスの方が「日本人は言わなくても相手にわかるという前提で端折って話す人が多くて困る」というような記事を読みました。
    カルト系の人達はそういうところを利用して仲間にして洗脳してるのかなと思いました。

    記事の最後のアドバイス、ぜひ意識させていただきます!

    • Dr. Qdech より:

      ちよさん、こんにちは。

      ここで書いたように、相手の何が良いのか、悪いのかということを「自分自身で」考える必要があると思っています。
      「あいつが言っているからおかしい!」というのは、「師匠が言ってるから正しい!」と盲信している信者と一緒ですからね。

      >元記事はわかりませんが先日、スイスの方が「日本人は言わなくても相手にわかるという前提で端折って話す人が多くて困る」というような記事を読みました。

      多分、これって、エドワード・T・ホールっていう人の「文化を超えて」っていう本が元ネタです。エッセイなので統計的な根拠はなさそうですが、実感としては、自分も日本では「空気を読む」とか「阿吽の呼吸」とか、言葉にしないでもわかり合えるみたいな背景が強い気はします。
      その点については、竹久さんのブログのコメントにも書きましたが、ある意味、日本社会のデメリットでもあり、今後の成熟が求められる部分でもあるかなという気はしています。