案山子論法によるコミュニケーション

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先日、川崎殺傷事件に関連して、

「一人で死んで欲しい」が「必要ないヤツは死んだ方がいい」に繋がる意味がわからない

ということを書きましたが、このような話し手の主張を歪めたり切り取ったりして作った脆弱な論理に対して反論する誤った論法を案山子論法とかストローマン論法というそうです。

5/28に起きた川崎市の殺傷事件で、立川志らく氏が言った 「死にたいなら一人で死ぬべき」 という言葉について賛否の声があるようで...

先日の記事を書いたあと、別のブログを読んだのですが、ここでは明らかに、この論法が使われています。
詳細は元記事を読んでみて下さい。

子どもがひきこもりなら、親が殺してもよいという風潮が怖い

https://blogos.com/article/381904/

まず、「子どもがひきこもりなら、親が殺してもよいという風潮が怖い」などという風潮は無いように思います。

また、このブログで引用されている記事や掲示板などの書き込みに関しても、
「ひきこもり『だから』殺した」ということを賞賛しているという書き込みは見当たりません。
ここに論理のすり替えがあります。

川崎無差別殺傷事件とこの事件を契機に、「製造者責任」の名のもと、ひきこもりや精神障害など、何らかの問題を抱えた子どもを親が殺すことを「許容」むしろ「賞賛」する風潮に、スイッチが切り替わったように思えて怖い。

という筆者の書き込みは、全くの思い込みに過ぎず、「ひきこもりだから」「精神障害だから」殺しても良いなどということを言い出す人がいるとしたら、それこそ問題ですし、むしろ、その筆者本人がそういう思想を根底に持っているんじゃないの?という穿った見方までできてしまいます。

『社会のお荷物は一人で死ね』という発想は、…

などと書いていますが、元々の志らく氏の発言は、「死にたいなら一人で死んでくれよ」でしたし、これは、後に歌手の高橋ジョージ氏が

「包丁4本、滑らないための革手袋、計画的大量殺人です。いったい何人の命を奪おうとしたのでしょう?「勝手に一人で死ねば」の前には「人を巻き込むくらいなら」が入るのです。非難されて当然です」

と書いているように、「人を巻き込むくらいなら」という前提条件が入るもので、「社会のお荷物は」などと歪んだ捉え方をするのは、やはり心が歪んでいるか、あるいは頭が悪いとしか言いようがない。

最初に書いた案山子論法の話に戻すと、これは自分の主張を正当化するために、それに相対する人の主張を歪め、切り取り、脆弱にしてからその主張を非難するというやりかた。

「相手が間違っている」だから「自分が正しい」

という、とても卑怯なやり方だと思います。
(しかも、相手が間違っているという主張の根拠自体が歪められている)

以前、心○信者の人と話をしていたことがありますが、こういう論理展開が多かったように思えます。

本当に、コミュニケーションの取り方や、ディスカッションのやり方について、しっかりと教育するべきで、文化の問題があるというのは理解しつつも、初等教育のうちから、しっかりと訓練しておくことが必要なんだろうなぁと思います。

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かかし

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