自称正義の味方の面倒くささ

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最近はエセスピや、おかしな自称カウンセラーを批判するような記事を書くことも多い自分がこんなことを書くのもどうかなと思うのですが…(笑)。

テレビを含むマスメディアなんかで、芸能人とか政治家とか、ちょっとした有名人が何かをやらかす(?)と、待ってましたとばかりに、一斉に件の人を叩き出す傾向が見られるというのはどういうものか、…とちょっと思う。

SNSやブログなどで自分の意見を簡単に発信することができるようになり、更にはそれに対して「いいね」など、共感してくれる人が出てくると無意識にでも承認欲求が満たされるということもあるのかもしれない。

社会悪(と自分が感じているもの)に対して、意見を述べるのは良いと思う。
自分の意見と異なる人の行動に対しては、場合によっては嫌悪感を感じることもあるだろう。
その感情を吐き出すことも、表現の自由の範囲でなら、まあ許されるかもしれない。

それを踏まえた上で、自分の考えを述べてみると…

過去、何度も書いているように、僕は基本的に「人は何をやっても良い」と思っています。ただし、周りに迷惑をかけないというのが前提条件で。

当然、上に書いたように、世の中の出来事に対して、自分の意見を述べるのも自由だと思っていますが、それを何のために行っているかについては、常に自己の行動を振り返ってみる必要があると思う。

例えば、たまに書いている自称カウンセラーの言動に対する批判を何のために行っているかと言えば、その言動によって不幸な人が増えるのを減らしたいから。
特に、自分に関わりが薄い(家族や友人が嵌ってしまったとかいうのではないなど)場合は、注意喚起に留めるべきだと思うし、傷ついている・傷つけられた人たちのケアに留めるべきなのだろうと思う。

ところが、世の中にはその範囲を超えて、あたかも自分が正義の味方にでもなったかのような錯覚でもしているのか、自分とは直接関係がなく、直接被害を受けたわけでもない当事者を叩き出す人たちがかなり多く見られるように感じる。

上に書いたように、自分の意見を述べる権利はあると思うし、それが場合によっては批判になる場合も当然あると思う。
しかし、自分の意見と異なる人間を罰するという権利があるかどうかについてはしっかりと考えるべきだし、自分のしていることが意見を述べたり、注意喚起ということを超えて、相手を罰していないかについてはよくよく考える必要がある。

言葉は人を殺す。

スマイリーキクチ中傷被害事件」は有名だし、昨年も常磐道の煽り運転事件で、同乗していた「ガラケー女」のデマ拡散の問題があったのは記憶に新しい。

これらの事件を「対象を間違えてたからだろう」と安易に考えてしまうことは間違いで、問題はむしろ、

「裁きを与える資格も権利も持っていない人間が、特定の人間に罰を与えようとした」

というところにある。

新約聖書「ヨハネによる福音書」には、次のように書いてある。

イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、
「主よ、だれも」
と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(8章1-11)

自分の言動の結果、自分の生きている世界がどのように変化すると自分にとって好ましいのか、そして自分の言動がその理想に向かって正しくなされているかについては、常に注意を払う必要があるのではないかと思う。

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正義の味方

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