プライスレス

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twitterを見ていると、ちょっと嫌な感じの情報が流れてきました。
炎上の張本人は既にブログ内容を消去し、反省の言葉も書かれていたようですので、あまり詳しいことはここには書きませんが、簡単に説明すると

子供が平日にはゲームをしないという家のルールを破り、友達と一緒にゲームをやっていたため、自分の子供のゲーム機のみならず、友達のゲーム機も壊した

というもの。友達のゲーム機を壊した理由は、自分のゲーム機を壊されるよりも友達のものを壊される方がしつけの効果があると考えたかららしいです。

この理由だけでも気分が悪いのですが、自分としてもっと気分が悪かったのは、「そのあと友達の親に電話して謝罪、新品を渡しました」と、いけしゃあしゃあと書いているところ。

「きちんと謝罪して新品を弁償しているなら良いじゃん」

と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、問題はそこではありません。

(ちなみにこの件は、「任天堂スイッチを3台壊しました」というようなキーワードで検索すると情報が出てくるかもしれません。)

「新品を弁償すればそれで済むだろう」

と安易に考えてしまっていること自体が問題なのです。

今回は、ゲーム機でしたが、誰かの持ち物の価値は、人によって違います。
一般的にものの価値は、その希少価値によって違ってきますが、そこに付与されている価値は、人によって違ってくるのです。

例えば、一般的に見れば、ちょっと汚れた、どこにでもありそうな人形が、亡くなった子供の形見だった場合。親にとっては、かけがえのない世界で唯一つの人形になるでしょう。
それは、同じ人形を買ったからといって、同じ価値ではありえません。

同じような例はいくらでも見つけられます。

5つ組でコンプリートするような人形とかトレカのシリーズがあったとします。
コレクターはそれを完成させようとしますが、なかなか揃わない。場合によっては同じ人形やカードが重複することも多いでしょう。
そして、それがコンプリートしたときには、重複したもの(余り)には、価値がそれほど無いわけですが、他の人にとっては、十分価値があったりします。

食べきれないほどの食料が手元にある場合、消費しきれない分は、持ち主にとって価値がなくても空腹の人にとっては宝物です。

このように、人によって何かの価値というのは全く違ってくるのです。

それを単純に「新品の同じ商品を弁償すればそれで済むだろう」と思っているのは、そこに付加されている目に見えない価値があるという可能性に考えが及ばない、全く想像力に欠けた人間と言わざるを得ません。

同じように、自分自身の価値観だけで物事を計り、表面的な価値で何かを手に入れる、あるいは何かを補償・弁済しようとする人がかなり多くなっているように思えてなりません。
基本的に、物事の価値は、その所有者に委ねられるべきであって、他の人から見ていくら価値が無いように思えたとしても、持ち主が1億円と言えば1億円ですし、5000兆円と言えば5000兆円なのです。

このようなことが起こると、僕がいつも思い出してしまうのが、かなり古い事件なのですが、木村一八がタクシー運転手に対して起こした暴行事件です。

知らない方もいらっしゃると思いますので、簡単に説明すると、漫才師 横山やすしの息子であった木村一八が、何の落ち度もないタクシーの運転手に対し暴行事件を起こし、その際に言った(と言われている)言葉です。
彼は暴行の最中に

「こいつが死んだら俺がムショ(刑務所)へ行ったらええんやろっ!大したことあらへん!」

と叫んだそうです。

当時、彼はまだ未成年。何を考えていたのでしょうか?
まあ、はっきり言ってバカとしか言いようがないセリフですが、刑務所に行くということと人の命が等価であるという勘違いが無ければ、とても出てこない言葉ですし、今現在でも、このようなバカな勘違いをしている人間が少なくありません。
刑務所に入ったからといって許されることではありませんし、たとえ死刑になったとしても、それで許されるとは思わない方が良い。
許す権利があるのは被害者だけなのです。そんなことすら理解できない人間の多さに愕然とします。

ちょっと話は逸れますが、今、会社で人を採用する際、面接時の質問事項にはかなりの制約があります。
これは、厚生労働省の「公正な採用選考について」というガイドラインがあります。
https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo.htm

ここでは、採用選考に当たっては

  • 応募者の基本的人権を尊重すること
  • 応募者の適性・能力のみを基準として行うこと

ということを基本的な考え方として実施することが謳われています。

どちらも一見、正論ですし、不当な差別があってはいけないのですが、これに準拠するために、

  • 人生観、生活信条に関すること
  • 尊敬する人物に関すること

などについて質問することも就職差別につながる恐れがあるとされています。

これらのことについて把握しておくことができないということは、逆に言えば、仕事だけできればどんな人間性を持っていても良いだろうということにも繋がりかねません。
繰り返しになりますが、これらの事柄について、不当な就職差別をするために知りたいというのは良いこととは言えないでしょう。しかし、自分が採用するのであれば、共感できるような人生観・世界観を持ち、どのような人物について尊敬し、どういう影響を受けているのかを知った上で採用したいと思います。
(ちなみに今現在、うちの会社は、ある事情のため新規採用ができない状況ですw)
仕事さえできれば、ロボットでも問題無いだろうというのではなく、自分自身の価値をどのように社会に活かしていきたいかということを考えているような人と仕事をしたいと思います。
(単なる作業をしてもらう人であれば、能力さえあれば誰でも良いです)
一緒に仕事をしたいのは、作業者ではなく、志を持って仕事をする人なのです。
これも、人の価値を単に「作業者」としてしか見ない場合には、そのようなことが起きてしまいます。

人の価値も、モノの価値も、自分の価値観を押し付けることはできないですし、取引や結婚など、他者との関係性の中で何かの価値を決めなければならないときは、お互いの合意によって価値を決めていかなければならないということについて、人はもっと認識しなければならないでしょう。

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壊れたゲーム機