心の欲する所に従えども矩を踰えず

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4月からは暇になる予定だったのですが、どういう訳か色々な案件が舞い込んできて、全然暇になりません(笑)。
まあ、ひょっとすると案件がポシャって5月からは予定通り暇になる可能性もあるのですが、周りから求められているうちが華だと思って頑張っています。

そんなこんなで、5月以降は暇になるか更に忙しくなるか読めないので、多少なりとも余力がある今のうちに、ちょっとブログを書いておこうかと思います。
(書きたいネタだけは溜まっていく…(笑))

タイトルに書いた「心の欲する所に従えども矩を踰えず」というのは、論語に出てくる言葉です。

子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。

「四十にして惑わず」

という言葉は聞いたことがある人も多いでしょうが、孔子先生の言葉ですね。

今回「心の欲する所に従えども矩を踰えず」ということについて書こうと思ったのは、いつも勉強させていただいているこちらのブログの記事を読んで、「引き寄せの法則」大好きな人たちについて思うところがあったのでメモ的にってことです。

僕は、所謂「引き寄せの法則」については、「まあ、あるだろう」くらいの考えです。それは以前もブログ記事に書いたとおり。

以前の記事で、「『引き寄せる』というより、願望に向かって、進んでいく」というようなことを書きました。 スピリチュアルなことが好きな人、...

で、引き寄せ信者がよく言う

「願っていたら臨時収入がありました!」

とか

「支援してくれる人が出てきました!」

とか

「自分の思いにピッタリの物件が見つかりました!」

とか、そういうことについても「まあ、そんなこともあるかもね」くらいのものです。
以前の記事でも書いたとおり、カラーバス効果によって、今まで気づかなかったチャンスについて気づくことも多いでしょうし、自分の夢や目標を公言していれば(そしてそれに向けて真っ当な行動をしていれば)支援してくれる人も現れるでしょう。
偶然であろうと、自分が呼び込んだ必然であろうと、自らの意識の中で紐づけ・関係付けができるのであれば、その人にとって「引き寄せの法則」はあると言っても構わない。
(実際は、引き寄せなのかどうかは知らないけどw)

一方、引き寄せ信者の中には

「自分の嫌いな同僚が転勤になりました」

とか

「どういうわけか、いつもは参加する人が急に参加できなくなりました」

とか、自分の都合の良いように周りの人の行動や思考まで変えられたかのようなことを言い出す人がいる。

自分の周囲の人が、あたかも自身の人生の中に出てくるオブジェかエキストラのような感覚でいるのか、周りの人の人生や人格に思いを馳せることは無いのだろうか?
…と、その思考に虫酸が走るような感覚を覚えるし、不気味でもある。

そういう人たちを見るたびに思うのだが、本当に「自分」という視点しか無いのだろうなぁ…と思う。

「自分が主人公の人生」

それは、それでもちろん良い。だが、自分が主役の物語に出てくる脇役にも、当然、その人の人生はあるし、その人の物語がある。なぜ、自分の都合の良いように周りの人が動いたと思えるのか。
一言で言えば幼稚な思考としか言いようが無い。

さて、タイトルに書いた

心の欲する所に従えども矩を踰えず

ですが、もし、本当に自らが世界の声を聴き、この世界と一体化しているのであれば、ひょっとすると自分の願望が全て叶い、周りが自分の思う通りに動いていくのかもしれません。

矩はルールのことですが、世界の成り立ち、理を自然に体現することができるようになれば、「思い通りのことを引き寄せる」というのではなく、自らの人生に起きていることを、ただ事実として自然に受け止めることができるようになるような気がします。

そういう意味で上に書いた例で言えば「自分の嫌いな同僚が転勤になりました」なんていうことではなく、嫌いな人がいなくなる(自分の受け止め方の変化によって)ということが、本来の意味での「引き寄せ」というか願望実現なのかなっていう気がします。
まあ、そこまで来ると、本人にとっては「願望」っていう意識も無さそうな気がしますが。

ただ、目の前のことを楽しみ、それでいて世の理に従う生き方ができるんじゃないかなぁ…と思います。

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