生涯学習/学ぶことの意味

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僕のブログを良く見てくださっている方が、このような記事を書いていました。

大学に行くということを考えているそうです。

僕は、何歳になってもこのように学びへの意欲を失っていない人って素敵だなと思います。

もちろん、学ぶということは、学校に行くことだけではなく、仕事の中でも学べますし、読書からも学ぶことができます。
有志を募って勉強会をしてみても良いでしょう。

今、国の方でも「リカレント教育」について推進しています。

文部科学省の説明によると、リカレント教育とは、

「リカレント教育」とは、「学校教育」を、人々の生涯にわたって、分散させようとする理念であり、その本来の意味は、「職業上必要な知識・技術」を修得するために、フルタイムの就学と、フルタイムの就職を繰り返すことである(日本では、長期雇用の慣行から、本来の意味での「リカレント教育」が行われることはまれ)。

我が国では、一般的に、「リカレント教育」を諸外国より広くとらえ、働きながら学ぶ場合、心の豊かさや生きがいのために学ぶ場合、学校以外の場で学ぶ場合もこれに含めている(この意味では成人の学習活動の全体に近い)。

https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad199501/hpad199501_2_093.html

とされています。

一般的に生涯学習の中でも、働くことが前提の学びをリカレント教育と呼んでいるようです。

個人的には、働くことが前提でも、学びそのものを目的としても、どちらでも構わないとは思いますが、いやいや仕方なしに何かを学ぶのではなく、しっかりと目的を持って学べる環境が整ってきているというのはとても良いことだと思います。

今後、超高齢化社会を迎えることが予想されている日本では、年金や社会保障の問題など、色々な課題を抱えていますが、人生100年時代と言われている中で、人生の後半(今までの社会で言えば、定年して悠々自適だった時期)をどのように過ごせるか、過ごさなければならないかについて考えるのは、国の問題でもある一方、個人個人の問題でもあります。

これまでの社会では、社会の進み方が比較的ゆっくりだったこともあり、若い頃に学んだ知識を使って仕事をし、生活を営み、働けなくなったら引退して死んでゆく…といった人生が比較的普通だったように思います。

しかし、まずは個人の寿命が延びている。

それによって、今までと同じように60歳程度で社会から引退してしまったとしたら、その後の人生がこれまでとは比較にならない程に長くなってしまう。
昔の感覚で言えば、人生を2度送っているようなものです。

当然のことながら、お金の問題を含め、引退後の生活についても考える必要が出てきますよね。

更に一方で、社会の変化がこれまでとは比較にならない程、速く進むようになっている。

昔は、一個人が人生で感じられる世の中の変化は比較的小さかったのが、今は、何度も時代の変化を感じる状況になっている。

そういう2つの事実を考えると、今後、人はどのように生きて行かざるを得ないかが見えてきます。

現在、日本の生産年齢人口(生産活動に就いている中核の労働力となるような年齢の人口)の定義は15歳~64歳となっています。
ところが、その人口比率が高くなってくると、当然、今までのように年金で悠々自適というわけには行かなくなってくるのは明らかでしょう。
そうなると、自分の生活費は自分で稼ぐ(=働く)ことが必要となってきます。

ところが、上に書いたように社会の変化が激しく、若い頃に身に付けたスキルや知識が時代の変化で役に立たなくなってくると、働くために必要なことを新たに学んでいく必要があります。

そして、自分の仕事のために役立てる。これが、リカレント教育が推進されている理由の一つです。


もちろん、これは重要なこと。

そして、自分のスキルアップを図り、自分の生活にも、世の中に対しても、自身を役立てられるようにしていくというのはとても大切なことだと思います。

ただ、これは単なる一つの可能性です。

国の方ではリカレント教育を推進する一方で、企業が生産性向上を推し進められるように様々な施策を進めています。
今、流行りのAIなどもそのひとつ。

今後、その効果がしっかり出てくれば、今と同様に悠々自適な老後を過ごせる人も、思いの外、減らないのかもしれません。

僕は、可能であればベーシックインカムを導入してくれないかなぁと思っているのですが、もしそれが可能であれば、何かを学ぶことや仕事をするということが、今とは全く違った意味を持ち始めます。
(現時点でも、昔に比べると、日本では、かなりそれに近いと感じていますが)人は、食べていくために仕事をするのではなく、仕事をするために学ぶということから解放されます。

先日、参院選が終わり、その後も、某新興政党が世間を賑わしているわけですが、どうもスピ系やエセカウンセラー信者や、放射脳の方々と親和性が高いよ...

以前、あるブログのコメントにも同様のことを書いたことがあるのですが…

何かを学ぶということに対して、「成果だけを求める」、「すぐに役に立たないならやらなくても良い」という立場は、僕にとっては、蓮舫氏の言った「2位じゃだめなんですか?」発言を思い出させます。

僕が大学生のとき、連載していたMASTERキートンという漫画があるのですが、その中に出てきたセリフで忘れられないものが一つあります。

「人間は一生、学び続けるべきです。人間には好奇心、知る喜びがある。肩書きや、出世して大臣になるために、学ぶのではないのです。では、なぜ学び続けるのでしょう?それが人間の使命だからです。」

マスターキートン(浦沢直樹「MASTERキートン」第3巻 【屋根の下の巴里】)

自分の経験から学ぶこと、実体験は非常に重要です。しかし、それと同時に、人間は先人から学ぶこと、本から学ぶこと、人から学ぶことも同じくらい重要なことだと考えます。
僕はこれを「魂の群体」と名付けていますが、人が他の人の体験を自分の体験と同じように学べるというのは、人が人たる所以だと思っています。
これは、先日も別記事で書いたとおり。

私は、読書が好きなのですが、本を読むことに意味を見出さないという人がいます。 そういう人の理屈としては、体験こそが重要であって、本を読...

もう一つ、気に入っている言葉を紹介すると、ドラゴン桜の中で主人公の桜木が同僚の先生に対して「勉強とは?」という問いかけをするシーンがあります。桜木の答えは

「勉強とは『生きる』ことだ」

というもの。

ドラゴン桜

(三田紀房「ドラゴン桜」第18巻 166限目)

僕にとっては、「働く=生きる」と同列で「学ぶ=生きる」ということも言えます。

文科省が進めている生涯学習は、

「人々が,生涯のいつでも,自由に学習機会を選択して学ぶことができ,その成果が適切に評価される」

とされています。

様々な事情により、学ぶ機会の持てなかった人、あるいは学べる機会はあったのに、興味が持てず、時間が経ってしまってから学びたいという欲求が出てきた人たちに機会が提供できる社会は、僕は素敵な社会だと思います。
齢をとったんだから、そんな場を敢えて作る必要はないよね。っていうより、いつでも学びたいときに学べる社会の方が、自分は嬉しいなぁ…と思います。


仕事のために勉強する。
無駄な勉強はしない

など、短い人生の中で効率性を考えるは重要ですが、一見無駄なものとも見えるゆとりは、人生を豊かにし、柔軟で靭やかな心を作るのではないかと思います。

無駄がないということは、別の見方をすれば、余裕が無いということでもありますからね。

例えば、足を踏み外せば深い谷底に落ちてしまうような一本道を歩く時、理屈から言えば、足を乗せるだけの幅があれば渡れますが、現実的にはそんな道を歩くのは、ほぼ不可能ですからね(カイジ?ざわ…ざわ…)。

カイジ

仕事に使うから仕方なく学ぶ

というのではなく、人生に彩りを添え、真の意味で豊かな人生を贈るために学んでいきたいものですね。

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