恥と罪と罰とかそんな感じのこと

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Twitterで、あるフォロワーさんが

「恥かくのわかんないのかな…」

と呟いているのを見て、ちょっと恥について考えてみた。

日本は、よく「恥の文化」と言われます。
古くは「菊と刀」などで論じられているかと思いますが、ユダヤ教文化圏が「神から与えられた戒律」を守り、それを守れないことが罪。そして、その罪に対して罰が与えられている「罪の文化」であるのに対し、「周りからどう見られるか」ということに重きを置くのが恥の文化であると言って良いかなと思います。

まあ、必ずしも単純化して考えられるものでもないと思いますが…。

ただ、これまでの日本の文化は「旅の恥は掻き捨て」などという言葉があるように、周りからどう見られるか、もっと言えば「自分に関係する人々からどう見られるか」について気にする文化だったようには思えます。

それは言い換えれば、周囲の人を気遣うとも言えますが、逆に「判断を周囲に委ねる」という成熟しきれていない精神性と言えないこともないでしょう。

「恥の文化」と「罪の文化」のどちらが良いとか悪いとかということは無いと思いますが、正直なところ僕は、恥の文化に染まっている日本では、民主主義というのは馴染みにくいのかなという気がしています。
先の戦争時にも「進め一億火の玉だ」とか「欲しがりません勝つまでは」のようなスローガンに踊らされてしまい、それに従わないことを恥としてしまうようなこともあったでしょうし、今でも同調圧力というような言葉をよく聞きますが、結局のところ、恥を感じるというのは、集団の中で異質な存在になるというときに感じるのかもしれません。

それはそれで、平時には集団を問題なく維持していくために有効なのでしょうが、一方でイノベーションは起こりづらく、一旦動き出したら、なかなか方向修正できないというデメリットもあり、社会の変化が激しい時代には、問題点の方が目立ってくる可能性もあるのかなという気がします。
逆に言えば、集団に属する人を一定のレベルにまで引き上げようとする圧力は高まり、大変な人もいるでしょうが、集団全体としてのパフォーマンスは(うまくいけば)上がっていくことも期待できます。

今のようにインターネットを含めた情報空間が拡大し、グローバルスタンダードがどのようなものか?という情報を次々を入手できるようになると、従来の日本の「恥の文化」というものも急速に変わっていっているような気がします。
周りに合わせるのではなく、自分自身の意思をしっかりと持って自分の行動を決めるというのは、意味があることですし、それ自体は素晴らしい生き方だと思うのですが、その一方で、恥の概念が無く、更に罪の概念も無い(ルールが整備されていない)状況になってしまうと、その社会はカオスになってしまいます。

要するに、今まで恥の文化の中で、個人の暴走を周囲が止めていたのが、個人主義が進み、恥を感じないという社会になりながらも、自分の行動を律する罪と罰の部分が整備されていなければ、暴走を止めるものが無くなってしまうのかなという気がします。

話はちょっと外れますが、僕自身はルールはなるべく少ない方が良いという考えで、個人の行動は、できる限り個人個人の良心に委ねたい。ただ価値観の違いによって「どちらが正しい」とは一概には言えないことが多いので、予めルールを作っておくということであるのかなと思っています。
では、その良心というのがどこで形成されるかといえば、やはり教育、特に道徳教育なのかなーとは思っていて、そういうことに非常に敏感に反応する方々も多いようですが、適切な社会生活を営むためには、絶対に必要なのではないかという気がします。

何となく道徳教育というと、小学生のときなんかは「良い話」「見習ったほうが良い話」みたいな感じだった記憶がありますが、今はどうなのかは知りません(笑)。

個人的には
聖徳太子の【十七条の憲法】
Wikipediaとかで見ることができますし、現代語訳もネットでいろいろと検索ができます。
ちなみに現代語訳はこちらがわかりやすかったです。

【教育勅語】
ここに口語訳があります。

この2つは学んでおく方が良いのではないかと思うのですが、日本共産党なんかは大騒ぎするかもしれません(笑)。

まあ、問題があると思ったところは時代に合わせて変えていっても良いと思いますけど。

さて、話を「恥」に戻します。
恥ずかしいという気持ちは外部に意識が向いているとも言えますから、社会における協調を重視しますし、それが希薄になった上に、社会的ルールが整備されない中でマイルールによる行動を優先する人が増えてしまうと社会が成り立たなくなってしまいます。
それを避けるためには、個人の倫理観を高く保つか、厳格にルールを決めて、それに従ってもらうか。

こうして改めて整理してみると、恥を行動規範とするのと罪を行動規範とするのとでは、どちらが成熟した社会なのか、あるいは人の精神性が成熟しているのかということに答えはなかなか出ない気もするが、どうもやはり日本人はまだまだ「自分で決めたくないから周りの顔色を見て…」という人が多そうな気はします。

恥を感じなくなった…という人たちはむしろ、今のネット社会の問題点でもありますが、エコーチェンバー現象のようなものによって、単に自分と同質な人たちの意見ばかりを受け入れるようになったことで(狭い世界の中で)自らの異質性について気づいていないだけなのかもしれません。

そう考えると、やはり異なる視点を持つ人の意見は真摯に受け止めて、自分の言動を客観的に見つめ直すことというのは大切なのだろうと思います。

赤面

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