自己表現の自由と幇助の話

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僕は、Webライターの黒猫ドラネコさんの発行しているニュースレターを購読しています。

無料でも一部読むことができますが、僕は注意喚起の部分というよりも黒猫ドラネコさんの考察や分析が読みたくて、有料登録しています。

先日配信されたニュースレターは「陰謀論YouTuberをどうにかして」というタイトルで、巷に溢れている陰謀論を撒き散らすYouTuberについての内容でした。

詳しくは、各自が読んでいただきたいのですが、有料部分に関して、ちょっとインスパイアされたので今回のブログを書いています(Twitterとかでは長くなりそうだったのでw)。

有料部分なので詳しくは書けませんが、YouTubeというメディアについての考察というか意見が書かれています。

自分なりの意見を書かせてもらうと、YouTubeに限らず、よく問題提起されるアメブロを始めとしたブログメディア、もう少し言えば、個人・団体を問わず、自分の思想を含めた表現の場を提供しているプラットフォームそのものをビジネスとした場合、その内容をどこまで規制するかということは、表現の自由と相まって、今後、慎重に議論していかなければならない問題なのだろうと思います。

少し大きな話にはなってしまいますが、メディア及びそれを発表、配信するためのプラットフォームは技術革新とともに変貌し、時代を追うに従って、人は情報を手に入れやすく、また情報の発信もしやすくなっていると言えます。
古くは活版印刷の発明以来、人々は本(情報)が入手しやすくなり、それが写植、複写機の普及に伴って、更に情報の提供や入手が容易になっていきました。

(ちなみに僕が子供の頃(もう40年以上も前w)には、まだ少し「ガリ版」と呼ばれる謄写版を見ることがありました)

それでも、今のようにインターネットが普及する前は、印刷物(物理メディア)を使っての情報配信だったため、個人や小さな団体が自分の考えや作品を発表するのはハードルが高かったということは間違いありません。
昔からミニコミ(マスコミに対するミニ・コミュニケーションの略称)という形で小規模雑誌あ小規模出版物などを作っていた人たちはいましたが、やはり費用などの問題もあり、広く発表するという感じではなかったと思います。

それがパソコン通信を経た後のインターネットの普及によって、自己発表の環境が激変したということが言えます。

パソコン通信時代も、それぞれのネット内では物理的に離れた人たちの間でコミュニケーションを取ることができましたし、例えばそのひとつである二フィティサーブなどでは、フォーラムと呼ばれるテーマごとの集まりが多数作られ、小説や音楽などの創作物の発表や、趣味、研究などの意見交換などがなされていました。

パソコン通信(今で言えばプロバイダーのようなもの)の場の提供にも当然、インフラ整備にコストがかかりますので、利用料がかかりますし、それはネットの世界だけではなく、リアルな世界でも、例えばどこかの会場などを借りた場合は利用料がかかるというのは当然のこととして理解されることだと思います。
ただし、この場合も、費用を支払いさえすれば何の制限もなく場所を借りることができるかと言えば、そんなことはなく、反社会的活動のために利用することはできないといった規約があるのが普通です。
あとは、実際にその規約を厳格に守れるか、確認できるかといった問題になってきます。

自分の経験で少しお話をさせて頂くと、僕が属している団体などでたまに会議(総会や定例会など)を実施する際に、行政で運営している会議室を借りたりすることがあります(安いので)。
その場合、利用規約が結構厳格で、営利目的に使ってはいけないなどのルールがあることが多いのですが(税金で運営されているので)、実際には、営利目的で使ったりしている人も見たりすることがあります(申込み時にすり抜けてしまえば、そこまではなかなか確認できないのでしょう)。

ちょっと話は逸れましたが、プラットフォームの維持にもコストはかかるのですが、利用者がそのコストを負担している場合は、それ程、問題になることは無いように思います。
利用者も規約を納得した人たちですし、そこで行われているコミュニケーションや情報のやり取りも、そこに閉じたものになっているはずです。言ってみれば、趣味の集まりのようなものであり、犯罪的行為が行われているのでない限り、現実世界で言えば、怪しげな情報が飛び交っていたとしても、宗教施設の中で自分たちの教義について勉強しているようなものです。

ところが、それがパソコン通信時代から、インターネットという形でコミュニケーションのあり方が一気に広がり、それと並行して、情報発信がスマホの普及とともに一般ユーザーも実施できるようになり、ブログを含めた情報発信プラットフォームが(一見)無料で使えるようになると状況がまたガラリと変わったように思えます。

第一には、ユーザ側の情報モラル及びリテラシー教育がインフラの広がりに追いついていないということが挙げられるのですが、それは一朝一夕にどうなるものでもありませんので、一旦置いておいて、問題はやはりプラットフォームの提供側が、その使い方・提供の仕方を考えていかなければならないのだろうという気はしています。

特に「無料」で使えるプラットフォームを提供しているといっても、インフラ整備にコストはかかるわけで、どこかでその費用は調達しなければならないわけです。
現在のビジネスモデルでは、有料サービスを使っていなければ、広告でその費用を賄っているというのが殆どであり、それはネットの世界に限らず、テレビのようなオールドメディアでも同じ構造になっています。

そのようなビジネスモデルを採用している限り、プラットフォームとしては広告のインプレッションが多いコンテンツを提供してくれる利用者を重宝するでしょうし、同様に(費用を払う)広告主も、露出が多く広告のリーチが多くなるコンテンツに対して広告を出したいというのは当然のことでしょう。
そうなってくると、ビジネスとして考えた場合には、より過激で話題性が高いコンテンツの重要性が高くなってきます。

単に広告の露出数だけではなく、そこから視聴者が受ける印象がどうなのかということも考える必要がありますので、広告主としては、コンテンツの内容を吟味した上で広告を出すかどうかも決定することが大切になってくるのだと思います。
それによって、良質なコンテンツの作成や露出をコントロールすることができる可能性が出てくるかと思いますが、今度は、それと情報・思想のコントロールに繋がらないかという問題が出てきます。

自分の作品を発表するためのプラットフォームとしては、例えば「小説家になろう」「カクヨム」「pixiv」のようなものであれば、それがフィクションであるということは利用者側も容易に判断できるでしょう。
ところが、より一般的なブログやYouTubeのような動画投稿サイトの場合、読者、視聴者側の情報リテラシーが高くなければ、簡単にフェイク情報に騙されてしまいますし、厄介なことに騙されている側は、自分こそが「隠された真実に気づいた人間」であるかのような錯覚に陥っているので、それを信じない(実際は単純に騙されなかった)人間の方が情弱であるかのように考えてしまうということもあります。

陰謀論にしろ、ニセ科学にしろ、エセスピリチュアルにしろ、それをビジネスとして成り立たせるためには、情報の提供側と享受する側の双方がいてこそ成り立つものであって、何らかの情報やサービスを提供して、その対価を支払っている場合、それだけの価値をお互いに交換していると思っているからこそ金銭のやり取りがなされているわけですよね。

これらに限らず、詐欺行為というのは立件が非常に難しく、詐欺師と被害者がお互いに納得ずくであれば問題になることは殆ど無いのだと思います。
これは、個人でも、誰かとの関係でも同じで、人は何らかのメリットがあると思うからこそ、何かの行動を行うものです。
そのメリットは金銭的なものに限らず、精神的な充足感を含めて様々なものが考えられますが、どういうスコープでものごとを考えるかということによっても変わってきて、例えば時間的なものを考えると、その瞬間だけのことを考え、刹那主義で生きている人にとっては保険に入るとか、貯金をするといったことは自分が使えるお金が減るだけでデメリットでしかないわけです。それどころか、その瞬間に使えるお金が増えるということだけ考えるのであれば、返せる当てのない借金をすることも自分にとってはメリットでしかありません。
また、自分のことだけ考える人であれば、自分の行為が周りの人の迷惑になるということも考えないでしょうし、他の人のことを考慮することによって自分の自由度が下がるのはデメリットとしか感じられないでしょう。

企業のビジネスにおける方針も同じように、短期的に利益だけを追求するのか、中長期的なスパンで物事を考え、一時的には利益が減ったとしても将来的には、より利益が得られるような戦略を取るのかというのはよくよく考えなければならないことです。

それを考えていくと、短期的にアクセス数が増えるコンテンツを放置した方がメリットが大きいのか、それともより良質なコンテンツを増やして、将来的にトータルでアクセス数が多いプラットフォームに育て上げた方がメリットが大きいのかを比較検討して、戦略を作っていくのはプラットフォームを提供している企業の経営者としての腕の見せどころとも言えるでしょう。

上に書いたように、今後、言論統制や思想のコントロールの問題、表現の自由の問題とも併せて考えていく必要があるので、なかなか難しい部分もあるわけですが、明らかにおかしい情報については、それを発表させないという単純な方法を取るのではなく、例えば「この情報にはフェイク情報である可能性があります」といったアラートを付加した上で表示させるといったことも必要になってくるかもしれません。
(現状でも、TwitterやFacebookなどでは、一部実施されているかと思います)

当然、ユーザ側も情報リテラシーの向上は必要で、先程も書いたようにスコープを広げて物事を考える癖をつけること。
凝り固まった視点ではなく、様々な視点(話をしている相手の視点、第三者的な視点など)から物事を見てみることなどが必要になってくるのだろうと思います。

例えば、世の中に流れてくる、一見正しそうな情報についても、それが事実なのかどうかしっかりと検証することが必要です。
ファクトチェック・イニシアティブ(https://fij.info/)などは、誤情報に惑わされないためのサイトですが、こういったものを利用してみるのも一つの手でしょう。

身近なところで言えば、ネットショッピングをする際に、ユーザからの評価を参考にすることは多いと思いますが、そこにもサクラが多く書き込んでいて、なかなか本当の情報を掴むのもむずかしくなってきました。

サクラチェッカーというサービスでは、Amazonの商品サイトのURLを入力すると、サクラやヤラセ評価の可能性を分析してくれます。

今後は、このようにAIを利用してフェイク情報なのか、信頼できる情報なのかを判断するということも多くなってくるでしょう。
ただし、最後はやはり人間による判断になってくるのだろうと思います。

正しく豊かな生活を送り、また、フェイク情報はエンタメとして面白おかしく楽しめるようにするためにも、一人ひとりの情報リテラシーの向上というのは、今後の社会において非常に重要な教育要素の一つになってくるのだと思います。
また、同様に良質なコンテンツの作成及び提供のためにはコストが必要であるというのは上にも書いたとおりで、それを享受する側が、何とはなしにそれを無料で手にすることができるかのような錯覚に陥っている社会は、自分としては健全な社会とは思えないので、何でも無料で提供しろなどというクレクレ君たちについても、どこかで教育を受ける機会を作っていく必要があるのかなぁと、ちょっと思います。

ネットの炎上

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