普通と特別とそれらの価値

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たまにコメントを書かせて頂いているこちらのブログで、興味深い記事がUPされていました。

詳細は御自分で読んで頂いた方が良いと思いますが、特別を求めず、普通を受け容れれば生き心地が良く、孤独も不安も感じる必要がなく、不満も現れにくくなるというような御意見が書いてありました。

自分が特別であることを求めることが不幸に繋がるかどうかは、ちょっと極端な言い方かもしれませんが、それを求めることが生きづらさに繋がっているということは言えるかもしれません。

ただ、自分自身が特別でありたいという欲求は、元々、人に備わっているものであり、それ自体は悪いものではないと思います。
ここで「特別」というのは、他者よりも優れているという意味ではなく、自分の存在を認めて欲しいという承認欲求に繋がるという意味でです。

一時期、すごく話題になっていたアドラー心理学でも同様のことを言っています。
ベストセラーとなった「嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え」(岸見一郎著)を読んだ方も多いでしょう。

そこから「優越コンプレックス」について書いてある箇所を少し引用してみます。

哲人 強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。かといって、「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。「できない自分」を受け入れられない。そうなると人は、もっと安直な手段に寄って補償しよう、と考えます。

青年 どうやって?

哲人 あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。

青年 偽りの優越感?

哲人 身近な例として挙げられるのが、「権威付け」です。

青年 なんですかそれは?

哲人 例えば自分が権力者――これは学級のリーダーから著名人まで、様々です――と懇意であることを、ことさらアピールする。それによって自分が特別な存在であるかのように見せつける。あるいは、経歴詐称や服飾品における過度なブランド信仰なども、ひとつの権威付けであり、優越コンプレックスの側面があるでしょう。いずれの場合も「わたし」が優れていたり、特別であったりするわけではありません。「わたし」と権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。つまりは、偽りの優越感です。

この後、劣等コンプレックスと優越コンプレックスの関係や、不幸自慢の話、そして他者からの承認を求めない「嫌われる勇気について」語られていきます。
(当然、そのアドラーのいう共同体感覚についても書かれていますので、安易に「好き勝手にやって嫌われることが正しいんだ」とか思わずに、本書を読んで頂くのが良いと思います)

ちょっと元の記事に戻ります。

御紹介した記事では、普通であることと特別であることについて述べられていますが、特別であること(他者と違うこと)を優劣の比較で考えてしまうと、本質を見失ってしまうと思います。

他者と同じであることが良いわけでも無いですし、他者と違う(特別)であることが良いわけでもありません。

そういった意味で、元記事では、漢字の意味を説明しながら、普通と特別の違いについて述べられていましたが、個人的には「凡庸」と「非凡」の違いというように考えた方が良いように思えます。

僕が何を気にしているかというと、人は皆、違うということをきちんと受け入れましょうということです。

SMAPの有名な歌「世界に一つだけの花」(←実は僕は、それほど好きな歌ではないのですがw)では、

No.1にならなくてもいい、元々特別なOnly one

と歌われています。
No.1というのは、他者との比較の中で生まれてきますが、Only oneという言葉の中には単なる自己実現しかありません。

金子みすゞの

みんなちがって、みんないい

の世界です。

世の中をよく見渡してみると、特別なものにだけ価値があるわけでも、普通に価値がないわけでもありません。

日本では、大抵の場所で、「普通」に水が手に入りますし、「普通」に空気も吸えます。
ですが、それらに価値がないわけではなく、無くなったらものすごく困るわけです。
普通が普通でなくなったときに、はじめてその価値に改めて気づくということもあります。
東日本大震災のときは、いろいろな場所で計画停電が実施され、困った人も多くいたと思います。

何でもないような事が幸せだったと思う by 虎舞竜 の世界

それで、普通であること自体はとても良いことだと思うのですが、それを人に求めすぎると、人間の均質化を促進していく気がしてしまうのです。
普通・特別という言葉を人に当てはめると、どうしても他者との比較が発生してしまいます。

上に書いたように、人はそれぞれ違うリソースを持って生まれてきます。
背の高い人、低い人。力の強い人、記憶力の良い人。
物を作るのが得意な人、考えるのが好きな人、人と話をするのが好きな人。
お金持ちに生まれた人、粘り強い人、色々なことに気づく人。
周りの人に気を遣うことが得意な人、リーダシップを持っている人。
もっと根源的なところで言えば、男性か女性かというところだってそうです。

「普通、これくらいできるよね」
「こういう対応が普通だよね」

という言葉が、「普通」というカテゴリから外れてしまった人たちを苦しめ、傷つけることが無いか。そこは気にする必要があると思います。

ダイバーシティ(多様性)が必要な時代と言われています。
人が考えなければならないのは、自分自身が持つリソースを社会の中でどう活かし、社会を形作るピースとして、自分をどのように位置づけるかだと思います。

均質な人たちで集団を形作るということは、ブロック塀を作るようなものです。
簡単に組み上げられますが、一つ一つのブロックに特徴は無く、簡単に替えも利きます。
それは、自分自身の価値を感じられず、場合によっては自己肯定感を低くしてしまうことに繋がってしまう可能性もあります

ブロック塀

一方、昔の城などでよく使われていた石垣。
これは様々な大きさ、形の石が組み合わさって壁を作っています。
必ずしも他の石よりも大きい石である必要はありませんし、きれいな形をしている必要もありません。
壁を形作るために必要な大きさ・形状であればそれで役割を果たしているのです。
(そして、そのように様々な大きさ・形状の石でしっかりと形作られた石垣はとても強いです)

石垣

大切なのは、他者との比較の中で自分を評価するのではなく、また当然のことながら集団の中で異質なものを排除するのではなく、役割がきちんと果たせているかどうかについて考えていくことだと思っています。

人に対して普通(均質性)を求めていくことの危険性について、もうひとつだけ。

今、日本中いろいろなところで、いじめの問題がたくさんでています。
均質性を追い求めた集団は、ふとしたはずみで自分たちと異質なものを排除し始めます。
自分と同質な者たちが一緒にやっているという同調圧力と安心感によって、個人ではできないようなことが、簡単にできてしまう。

それは個人の尊重とは真逆の全体主義(ファシズム)に繋がっていく可能性がある。

このブログでは何度も書いていますが、自分の頭で考えること
そして、自分とは異なる相手に対するリスペクト

これを常に忘れないようにしていかなければならないと思います。

ところで、ちょっと気をつけなければならないと思っているのは、先程の

「みんなちがって、みんないい」

という言葉、そのままの自分で良いということを怠惰な自分で良いという風に受け取らないこと。

  • もっと金持ちに生まれていれば
  • もっと美人だったら
  • もっと背が高かったら

という、自分が持って生まれたリソースを嘆いていてもしかたない。
アドラー心理学では、「原因論」ではなく、「目的論」の立場を取ります。

「○○がないから△△ができない」

という理由付けはしないのです。

「○○なのは△△したいからだ(したくないからだ)」

という考え方です。
(このあたりも曲解して、おかしな使い方をされると問題を起こすと思いますが…)

要は、「そのままの自分で良い」というのは、自分が持って生まれたものについて否定すること無く、更に理想の状態へと成長・進歩をするための原動力として劣等感も必要だということを言っています。
逆に言えば、劣等感(理想の自分とのギャップに感じる違和感)が無ければ成長もないということです。

「普通」という言葉を使うのであれば、他者との比較ではなく、自分の成長のために使っていけるようにしたいですね。

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均一な人たち

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