理想ばかり語り、現実には目もくれない理想論者についての記事をネット上で読みました。
https://takehisayuriko.tokyo/2019/06/21/post-5318/
ある意味、正しい部分もあった記事ですが、言葉足らずで説明不足なところ、また自分とはちょっと意見が違うな…と思った部分もあったので、自分が考えている「理想」について、ちょっとまとめておこうと思います。
まず「理想を語ること」についてですが、口に出す・出さないは別にして、僕は絶対に必要なことだと思っています。
人は、理想に向かって進み、人生を過ごしていきます。
よく言われる喩えですが、「何の仕事をしているのですか?」と尋ねられたときに
「レンガを積んでいるのです」
と答える職人と
「世界一の教会を建てているのです」
と答える職人では、日々の充実度、幸福度も違いますし、毎日の生活や仕事の中から学んでいくことも違うでしょう。
でも、この職人たちは、どちらも間違っていることを言っているわけではないのです。
では、何が違うのか?
視野の広さと視点、生きている世界の広さが違うのです。
目の前の仕事に注力し、レンガを上手く積むということをコツコツやっている職人が悪いわけではありません。しかし、その職人の毎日は、それで終わり、それ以上のことは起こりません。
極端なことを言えば、素晴らしい教会が建とうが、オンボロの家が建とうが、悪の秘密基地が建とうが、日々の賃金が貰えればそれで良いのです。
一方で、世界一の教会を建てていると認識している職人は、周りからは他の職人と同じ仕事をしているように見えたとしても、自分の役割に誇りを持ち、日々の賃金を貰うことと同時に、教会に来る人の顔や、そこで救われる人の人生まで思い浮かべるかもしれません。
彼の生きている世界の中での、居場所と自分の役割を見出すのです。
どちらの職人も自分の役割を果たしていれば、自分は幸せでしょう。
ただ、見えている範囲が違えば、自分の仕事の意味も違ってきます。
例えば、振り込め詐欺で「受け子」と呼ばれる役割の人が、
「自分は、金を受け取ってくるように言われただけだから責任は無い」
と言ったとしたらどうでしょう?そんな言い訳が通用するはずありませんよね。
何が言いたいかといえば、目の前の仕事をしっかりこなすことは大切ですが、それは、その仕事を与えてくれる周りの人、社会に悪意が無いという前提でしか成り立たないということです。
昨年末から、twitter上で心屋仁之助信者の方とやり取りしていたのですが、個別の話では賛同できるところがあっても根本的なところで意見が異なっていました。
それは、彼らは「結果オーライ」で目の前のことしか見ていないこと。
だからこそ(超厚意的な捉え方をしたとすれば)、目の前の苦しんでいる人、問題を抱えている人にしか考えが及ばず、反社会的な行動・言動を問題と考えていないのです。
この発言↓
本田さんは、保健師さんが叩くことを容認したとは考えていない。
私は、保健師さんは行為として、叩くことを容認したと考える。
私は、結果として子供を叩くのが止められればOKと考えている。
でOKです。— 臘虎 (@5656seaotter) December 12, 2018
しかし、僕は下の発言のように、手段を選ばない短絡的な問題解決は、必ず別の問題を生み出すと考えています。
このやり取りの中で最初に確認した「結果オーライ」を良しとするかどうかというスタンスの違いが意見の違いを生んでいるように思えます。
私は問題を解決できるなら手段を選ばないという立場は取っていません。それは必ず別の問題を生み出すからです。— 本田秀行 NBIコンサルティング株式会社 (@itchidepon) March 18, 2019
(一応、話の流れをtogetterにまとめてあります。発言が分岐してわかりづらいので、興味のある方は、元の発言を追ってみてください。
https://togetter.com/li/1297896 )
その違いはどこから来るかと言えば、簡単なことで、見ている範囲が違うからです。
目の前のことだけしか見ていなければ、目の前にある問題の解決だけを見るのは当然です。
それは、理想主義者とか現実主義者とかいう問題ではなく、単純に視野の広さ・考えの深さに依存します。
単なる理想主義者が批判されがちなのは、理想を持つことが悪いからではなく、理想しか見ず、現実を見ていない視野の狭さでしょう。
逆に目の前の現実に囚われ、理想がない人間は刹那主義で迷走し始めます。
既に消滅した、国民を騙して政権を取った政党から出た鳥の名前がついた首相は、まさにこれ。
究極の理想主義者で、現実を全然見ていないから、最後に会った人の意見に左右され、現実の問題を無視して「こうすれば良い」ということしか言わない。
そして口から出た腹案なんか、本当は全然無い(妄想)。
こういうのは、理想を語っているのではなく、夢想・妄想を語っているとしか言いません(笑)。
繰り返しますが、理想を語るのが悪いわけでも、現実を生きるのが悪いわけでもありません。
視野が狭いと、本当の問題が見えないということです。
ちょっと別の例を出してみましょう。
西洋医学と東洋医学
ざっくり言うと、西洋医学は分析的であり、病気の原因を取り除き、東洋医学は体全体のバランスを整えるような治療をします。
西洋医学では、患部に直接働きかけるような薬を使いますので、即効性がありますが、健康な部分にも影響を及ぼす可能性があります。一方、東洋医学は、即効性はありませんが、体にやさしい。
(あくまでも、そういう傾向というだけで、当てはまらないものも、もちろんあります)
では、すぐにも患部を取り除き、苦痛を取り除いて治療をしなければならないというときに、医者が
「私は、健康な他の部分には一切、影響を及ぼさないような治療をしたいし、病気の原因が100%特定され、副作用も危険性も0%でないような施す気にならない」
と言ったらどうでしょう?
そんなことを言っている間に、症状は悪化し、死んでしまうかもしれません。
(それが実際に行われているのが代替医療の闇)
まずは理想的治療ではなく、暫定的な対処療法を施さなければならないこともあるのです。
今まで書いたことを図に表すと、下のようになります。
単なる理想主義者は、ゴールがどこにあるかだけ見て、足元の問題を疎かにする。だから色々と非現実的なことばかり言って、理想が現実にならない。
一方、現実主義者(刹那主義者と言ったほうが良いか?)は、目の前のことしか見ていないから、将来、どうなるかを考えないから、最終的には谷底へ落ちてしまう。
理想のゴールを見据えつつ、どういうリスクがあるか考えながら、方向性を間違えずに、今、自分が歩かなければならない道を一歩一歩、確実に進んでいくことがゴールに至るために必要なことで、そのためには目の前の道を歩くのではなく、ゴールがどこなのか、きちんと見据える(自分で決める)ことが必要です。
自分で考えずに、他の人についていくことしかしないと道を誤ることになります。
ちょっと話は変わりますが、僕は「政治家こそ理想を語れ」と思っています。
その一方で、当然のことながら、その理想を現実にしていくのが政治家の仕事であって、そういう力が無い口だけの人間は、政治家ではなく評論家でもやっていれば良いし、逆に理想が無く、現実の世界での調整ばかりが上手い人間も政治家をやるべきではないと思っています。
亡くなった政治評論家の三宅久之さんが「政治は国民に夢を与えるものでなければならない」と言っていましたが、全くそう思いますね。
ただ、政治家は夢を夢のまま終わらせるのではなく、現実を見据え、どうやって、その夢を現実に変えていくかを考えるべきで、今の野党って、いったい何をしたいのかは情けない限りです。
こちらの記事にも書きましたが、人は
「この世界が理想的であるために、自分はどのような役割を果たすべきか」
を考えるべきだと思います。
ただただ、刹那的にその日を生きるのではなく、視野を広げて行くように自己の成長を図るのが自分の居場所をこの世界に見つけることに繋がるのではないでしょうか。
自分が理想とする世界の成り立ちを考えた時、色々な役割を果たす人がいます。
全員が主役の劇はありませんし、舞台に立つのではなく、照明や音響の役割を果たす人もいます。でも、それぞれの役割を果たす人がいないと、劇は成り立ちませんし、自分の役割を果たすことが自分の喜びになるはずです。
舞台の上にだけ目が行っていれば、ひょっとすると主役の人だけが輝いているように見えるかもしれませんが、視野を広げていけば、それぞれの役割を果たす人がそれぞれ輝いていることがわかるでしょう。
視野を広げるというのはそういうことです。
視野を拡げるべき…ということについては、先日も別の記事を書きました。
そちらも御参照いただければと思います。