心屋仁之助氏とAI

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

Dear 心屋さん。
昨年末から、ひっきりなしにネタになるような投稿をありがとう、ありがとう。
(ひょっとして以前からだったのかもしれないけど、最近、自分の目に留まることが多いです)

昨日も、こんな投稿が目に入ってきました。

この好き勝手はいいけど
この好き勝手はダメってなんだ?

心屋氏

心屋さんに何かを伝えようとしている人は、

好き勝手がダメって言っているんじゃなくて、単に人に迷惑を掛けることがダメって言ってるんじゃないでしょうかね

まあ、こんなことは良い歳した大人が言うようなことでもないように思えますが、理解できないのであれば仕方がない


さて、今、世の中で話題のAIですが、現在のAIの特徴というか重要な要素が「学習」です。
ディープラーニングという言葉も普通に聞くようになっていますが、すごくざっくりと言えば、「こういう入力があれば、これが正解」という学習のためのデータを与えれば、その判定ルールを外部から与えられなくても自ら学習するということがポイントになってきます。

例えば、子供が育っていく過程で「これは犬」、「これは猫」ということを親に教えてもらっていれば、事細かく「目と鼻の位置関係がこうで、ひげの位置がここで、ワンと鳴く」のが犬で、「こういう顔でニャーと鳴く」のが猫ということを教えてもらわなくても自律的に判断できるようになります。

ところが、この学習データに問題があると、学習が正しく収束しません。
例えば、あるときはAという入力で○だったのに、別のときにはAという入力で×だったとしたらどうでしょう?
Aという入力によって○なのか×なのか、判断がつきません。
ですから、育児の時も、教育の時も、仕事を教える時も、学びのためのデータには一貫性がなければなりません。そうでなければ、人は正しく学べないのです。

今回、心屋氏が言っているのは、まさにこの状態

この好き勝手はいいけど
この好き勝手はダメってなんだ?

彼が今までの人生で学んできた「好き勝手」は良いことだったはずなのに、アンチからは「好き勝手」はダメだって言われる。

ここで、彼の認知には混乱が起きているわけです。

これは学習データが間違っていたからです。

本来であれば、「人に迷惑を掛けなければ」とか「自分で責任が取れるなら」という条件とともに「好き勝手」にやるという入力データにしなければ正しい判断ができないはずなのに、これまで彼に与えられていた学習データでは、その条件が欠けているものしかなかったのかもしれません(多くの人は成長の過程で、様々な経験を積むものではありますが…)。
だからこそ、人は様々な人から、本から、歴史から学び、偏りのない学習データを取り込んで成長していくことが必要なのです。

例えば偏った学習データしか与えられず、「体に毛がモフモフ生えていて、4本足で歩く動物(人に良く懐いたペットの犬)は、人間を傷つけない」というような学習しかしていない人が、野生の空腹のトラの前に立ったとしたら、自分の身を危険に晒すだけでしょう。

僕が経験からだけ学ぶことに危険性を感じるのはそういうところです。

本当は、今日は心屋さん関連じゃないことを書こうと思っていたのですが…。 (というか仕事しようと思ってたw) いろいろと考えるためのネタを...

心屋氏が

「経験した人の話でなければ聞かないことにしている」

というのは、ご勝手にどうぞなのですが、偏った知識からは偏った判断しかできません。

僕は、

人は正しく評価すれば、正しく動く

と思っています。
彼がこれまで、周りに配慮すること無く、好きにやっていいと言ってきたのは、彼のその行動によって彼自身に不利益を被ることがなく、更には信者様たちからも感謝されてきたからでしょう。
一方で、アンチと呼ばれる人たちから批判を受ければ、真っ当な大人であれば、負の学習効果として、自身の判断基準・行動基準を変化させるようになるものなのですが、

「アンチの評価の方が間違っている。そんなのカンケーね―」

と考えてしまえば、自己を矯正する機会を失ってしまいます。


マネジメントで有名なドラッカーは以下のように言っています。

They may forgive a person for a great deal: incompetence, ignorance, insecurity, or bad manners. But they will not forgive a lack of integrity in that person.

能力不足、知識不足、不注意、マナーが悪い。 これらは何とか後に改善できるかもしれない。しかし、どうにも救いようもない性質がある。 それは真摯さに欠けることである

周りの声に耳を傾けず、真摯に忠告を聞くことができないという性質は、ひょっとすると生まれ持ったものなのかもしれませんし、年齢を重ねるに従って、それまでの成功体験もあり、難しくなってくるものなのかもしれません。

自分はその辺りには注意を払い、老害にならないように気をつけたいなぁと思います。


あ、そうそう。心屋さん

お前は人生の中でいまだかつて
ヒトを傷つけたことはないというのか?!
交通違反のひとつもしたこともないというのか?!! 

とか書いていますが、人と関わって生きていく中で、意図せず人を傷つけてしまうこともあるでしょうし、間違いを犯してしまうことだってあるでしょう。

しかし意図的に「〇〇してもいい」というのと「〇〇してしまうこともある」っていうのは意味合いが全く異なってくると思いますよ。

心屋仁之助信者との対話シリーズ(笑) さてさて、心屋仁之助を批判する人たちが、よく出す例 「猫を殺しても良い」 心屋氏の言う「...

あと、

○○もやってる~

っていう自分に対する批判の批判って、KAIWAINGあるあるですが、あまり意味ないですね。

確かに聖書の中でイエスは

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」

ヨハネによる福音書第8章3〜11節

と言っていますが、人の罪を擁護するときに使うのであればともかく、自分が非難を躱すために使うのは格好悪いです。

【追記】

この記事をUPしたあと、心屋氏のブログに新しい記事がUPされているのに気づきました。
なんか、グダグダと説明していたけど、言えば言うほどドツボに嵌っていってるように感じる。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学・思想情報へ
にほんブログ村

ディーブラーニング

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする