自由になるということ

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

心屋仁之助批判ブログではないので(笑)、あまりこの手の記事をこちらに書きたくは無いのだが、最近、何度か僕の言っていることが心屋氏の言っていることと同じではないかというコメントを頂いているので、自分の中での整理の意味も込めてちょっと纏めておくことにする。

まず、同じといっても

  • 表面上同じ(似ている)に見えるが、その実態は異なるもの
    → 例えば、鳥の羽と昆虫の翅のような違い
  • 表面上違っているが、その本質が同じもの
    → 例えば、水蒸気と水と氷のような違い

の2種類があるかなと思います。
心屋氏の言葉と、自分が書いてきたことのどこが同じだと思うかは、指摘する人によって違うとは思いますが、「この辺りは同じかも」といったところを中心に整理してみます。

まず第一に、僕は基本的には、人は「何をやっても良い」と思っています。
この辺は、同じように見えるかもしれません
ルール至上主義ではないので、現実に即していないルールや法律は、どんどん変えていくべきだとも思っています。

ただし、「ルールを守らなくても良い」とは思っていません。社会のルールは、そこに暮らす人々のコンセンサスによって決められたものだからです。それを勝手に破るというのは、単なる我儘であり、そのようなことをしたいのであれば、むしろその社会から自分の方が出ていくべきだと思います。
然るべき手続きを取った上でルールを変えていく必要があると思っています

常に社会においても人生においても「最適」を考えたいと思っていますので、それまでの経験や常識に囚われることなく、他の可能性は無いかということを考えます。

先日、ノーベル賞を受賞した本庶佑先生はインタビューの中で

よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。

まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。

つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。

ということを言っています。
この「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘」という言葉が、偽スピ系の人に都合良く使われることは懸念していますが(そして、実際、既にそういうことがあるようですが)、基本的には、本庶先生の言っていることに大賛成です。

「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘」というのは、当然、「現代科学は嘘だから自分の都合の良い理論を振りかざして良い」ということではなく、常識とされていることを疑えということだと思います。

これは個人の生活でも同じで、自分の考えや行動を決めている要因が何なのか?
自分で決めていると思っていても、単なる思い込みや誰かに言われたことを真に受けているだけ、単なる思考の癖だったりすることはないか、時々、考えてみる必要はあるかなと思います。
ひょっとすると、この辺も同じように見えるのかもしれません

では、その常識をどのように疑っていくか?

心屋氏は「何をしても良い」「嫌なこと・苦しいことはやらなくて良い」と訴えているように見えます。
要するにアドバイスを求めている人に対し「行動」を示唆しているわけです。
(実はこの辺りは、私のアメブロの「存在の価値について」という記事で指摘しています)

簡単に書くと

人の価値は、その人の行動や現状と切り離して考える必要があるのですが、それがなかなかできない人も多い。行動と存在価値を切り離せないと、今度は自分の存在自体に価値を見出そうとするあまり、自分の行動そのものを全肯定し始める。

何をやっても許されるはず。それは自分に価値があるから

というようにです。これが心屋氏の教え

そしてそれを、彼の書籍、ブログなどを含めて公の場で言っています。

ひょっとすると心屋氏、あるいは彼の信者は「そんな意図では言っていない」というかもしれませんが、オーブンな場で誰でも読める状態の中、そのようなことを言えば、そのように自分に都合の良い受け取り方をする人間が必ず出てくるという配慮が必要です。
多分、この辺りの配慮の無さが批判されている要因の一つ

上にも書いたように、私自身「何をやっても良い」と思っていますが、それには理解すべき前提条件が2つあります。

  1. 自分の行為の結果に対しては、自分で責任を取らなければならない
  2. 自分の行為は他の人にも影響を与える可能性がある

普通に社会生活を営んでいる人間であれば、ある意味、当たり前のことではあります。
それについて心屋氏は信者に伝えているか?
(常識だから伝える必要はない、と彼が思っているのであれば、心屋氏の使っている過激な言葉・手法に対して無責任な態度だと思います)

私が具体的に「〇〇をしても良い」(←今、出来ていない)、あるいは「△△しなくても良い」(←やりたくないのに、今はやっている)というアドバイスを与えるなら、

「〇〇が出来ないのは何故だろう?」
「△△をしなければならないのは何故だろう?」

という問いかけをします。
それによって、惰性で行っていた(あるいは行えなかった)行動に対して思考が働き、理由を探し出すからです。
その上で、適切な理由が見つけられなかったなら初めて

「〇〇をしても良いんじゃない?」
「△△はしなくても良いんじゃない?」

というアドバイスです。

いきなり「〇〇をしても良い」という行動の示唆を与えるということは、心を強力に揺さぶります。特にそれが自分の悩んでいることであればある程です。
(それが心屋信者を生む一つの要因だと思っています)

「〇〇をしても良い」というのは、ある人にとっては自分の行為にお墨付きを与え、依存と責任転嫁を生むだけのものになってしまいます。
それが思考の自由を奪うというのは、以前「スピ系の何が問題か?」という記事でも書いたとおり。

自分がやりたい何かをできていない理由、やりたくない何かをしている理由を探すときの前提条件の一つ「自分の行為は他の人にも影響を与える可能性がある」ということが、心屋氏、あるいはその信者の中に決定的に欠けていると思っています。

つまり見えているのが、相談者その人のみ、あるいは自分自身で行動を決めている場合は、ただひたすら「自分」だけを見ている。
それが「叩かれるために生まれてきた子供」や「借金を返さなくても良い」という言葉につながっていると思います。

叩いている親は、その言葉で救われるかもしれません。
借金をしている本人はその言葉で救われるかもしれません。

しかし、全く当然ながら、叩かれる子供は傷つきます。借金を返してもらえなかった人は困ります。

その視点がない。
視野がひたすら内向き、自分だけが可愛いという思考に陥っていきます。
そしてそれを後押しするのが

どうせ愛されているから

という呪いの言葉。

ドイツの社会心理学者であり哲学者のエーリッヒ・フロムの書いた「愛するということ」という本があります。

その中には

愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。

という言葉があります。
また

利己主義と自己愛とは、同じどころかまったく正反対である。
利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。
いや実際のところ彼は自分を憎んでいるのだ

ということも書かれています。

どうせ愛されているから

という言葉で、利己主義を増長させている心屋氏と自分の考えていることが同じようには自分には思えません。

また、何度となくブログには書いていますが、僕は「自立」というものを非常に大切にしています。「依存しても良い」と公言している心屋氏とは、その点でも違っているのではないかと思います。
(まあ、同じことを言っていると思われるのは、単(ひとえ)に僕の表現力の無さが問題とは言えるでしょう(笑))

※心屋信者の方との意見交換はこちらからどうぞ
まだ意見交換途中なので、適宜、更新していきます。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学・思想情報へ
にほんブログ村

自由な旅人

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする