人は正しいことはわからなくても間違っていることは判断できる

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Dr. Qdechです、こんぼんは。
こんぼんは、だって(笑)

こんばんは。

…すいません。パクっちゃいました(笑)

ちょっとバタバタしすぎて、本当はブログなんか書いている状況ではないのですが、忙しいときほど現実逃避の法則が働いて、書きたいことが浮かんできます。
(そしてこれは、移動中の列車の中で書いてますw)

相当、アンチの批判が堪えているのか、あるいは前からそうだったのか、僕には判断がつきませんが、少なくとも最近の心屋くんのブログは、丁寧に自分の考えを伝えようとしている姿勢は感じます。

でも、残念ながら、やはり僕には、賛同できないことが多い。
それは、まあ仕方ない。

先日書いていた彼の記事

ここには

新しいことを学ぶときは
今のものを捨てないと入らないよ。

ってことが書いてありました。

まあ、何かを変えたいと思って新しい何かを学ぶ時、現在の価値観で判断するなってことなんだろう、と思います。

でもね…。

これって、すごく危険な考え方だと思う。
彼自身、

既存の価値観で
心屋の記事なんて
読んでもわからんわけです。

悪、にしか見えんはず。
既存の価値観を壊そう!が主旨だから。

と書いていますが、心屋くんの記事・考え方が悪にしか見えないかどうかは、取り敢えず置いといて、

既存の価値観を壊す = 既存の価値観の逆が正しい

とは限らないわけです。

この、

現状がだめ → だから、違うことをやれば良くなる(正しい)

っていう二元論的な考え方は、判断にミスを生じたり、その結果、より悪い状況に陥ってしまう原因になりかねない。
(旧民主党が政権を取ったときなんて、まさにこういう意識が蔓延していたと思う。自民党ダメ、だから民主党政権なら良くなるはず!結果は…)

二元論的考えにとらわれてしまえば、上に書いたように「今がダメなら、逆をやれば良くなる」という短絡的な判断になってしまうのでしょうが、世の中のプラスとマイナス、右と左、正解と間違いのように、ばっさりと分かれるわけではありません。

例えば、

何か目標に向かって日々努力を続けていたとします。
でも、それがなかなかうまく行かない状況にある

そこで、既存の価値観が正しいのかどうか疑ってみる というのは、良いと思います。

それは、僕のブログでも以前、「何故、猫を殺してはいけないか?」というという記事で書いたとおりです。

心屋仁之助信者との対話シリーズ(笑) さてさて、心屋仁之助を批判する人たちが、よく出す例 「猫を殺しても良い」 心屋氏の言う「...

「頑張っているのに上手く行かない。上手く行くために頑張るのは正しいのか?」

それを短絡的に、「頑張らなくても良い」としてしまうのかどうかが問題です。

頑張らなくても上手く行くかもしれない。でも、上手く行っていないのは、単に頑張る方法・方向が間違っているのかもしれない、あるいは頑張り方が足りなくて、まだ結果が出ていないだけかもしれない。

「頑張らなくてもいい」

っていう価値観の破壊だけではなく、いろいろな見直し方があるわけです。

そう考えると、心屋くんの書いている

変えたくて読み始めたはずなのに
その読んだ先をおかしいと批判するって

なんの時間の無駄遣い?

っていうのは成り立たない。

これは、価値観を変えたくて何かを取り入れようとしたときは、目にしたものを無批判に受け入れろということですからね。
(まあ、これが彼の言う「やってみんとわからんやんか!!!!やってもないやつがうだうだ言うな!」ということにも繋がるのでしょうが)

僕は以前、

素直であるということ

という記事を書いています。

スピリチュアルなことでも、自己啓発的なことでも良いのだが、それらに嵌っている人たちがよく言うこと。 「素直にやってみる」「素直に受け入...

そこには、無批判に何かを受け入れるということは、素直に受け入れるということとは違うという説明が書いてあります。盲目的信頼と素直であるということは違うのです。

「辛いんだろ?困ってるんだろ?だったら、まずワシの言うことを無批判に受け入れろ。変えたいと思ってるのにワシの言うことをおかしいと批判するって、お前の方がおかしいんじゃないのか?」

なんていう言葉に惑わされませんよう…。

人間は完全じゃありませんから、なかなか全体を俯瞰して見渡すことができなかったりします。
どうしても近視眼的になりがち。
そんな状況の中で、すごく大きな円の一部を見せられて「これは完全な円です」って言われても、本当は一部が歪んでいたり、途切れていたりっていうことが判断できないわけです。
でも、たまたま、その歪みや欠けを目にしていたら「これは完全な円です」って言われた時に「違います」って判断できますよね。

このように、人間は正しいかどうかの判断は難しくても、間違っているかどうかは、間違いを指摘されれば判断できるんです。
だからこそ、批判的な意見に対しては真摯に耳を傾ける必要がありますし、そういった声から目を逸らすようなことをいう教祖・リーダーの言うことは、眉に唾をつけて聞いておいた方が良いと思います。


あと、この記事に書いてあった

好きなことをやったのだ
代償は はらわねば

という心屋くんの記事へのコメントに対する

この考え方、しんどくなるからオススメしない。

イイこと、楽しいこと、好きなことやったら
イヤなことがある?報いがくる?

こんなこと思ってたら
一生、楽しいこと避けて生きることになるよね。

好きなことは
楽しくて幸せで

それとは関係なく
悪いことも起きる、

だよ。

代償、とか
ないよ。

っていうのも、僕は違うと感じています。
というより、心屋くんがコメントの真意を理解していないか。
(まあ、コメントを書いた人に確認しないと本当のことはわからないけれども)

このコメントで言いたいことは、心屋くんが「好きなことをしてきたから」という代償について言っているわけではなく、「好きなことをしてきて『周囲に与えてきた影響』」に対する代償を払わなければならない、ということだろうと思います。

心屋くんが書いているように、

良いことがあったから悪いことがある
逆に悪いことがあったら良いことがある

わけではないと思う。良いことがあった代償、悪いことがあった代償があるわけではないでしょう。これは自分の行動に対する代償ではなく、自分の身に降り掛かった出来事に対する代償。
もちろん、自分の影響範囲が及ばないことに対しては、良いことだって悪いことだって起こるでしょう。
例えば地震や台風などの自然災害に遭遇してしまった。こんなものはそれまで良い思いをしていたとか、善い行いをしていたとか関係なしに、いつ自分の身に降りかかるかわかりません。
ものすごく不幸な境遇にあった人が宝くじの一等を当てるわけでもないでしょう。

しかし、自分の意志による行動・言動は必ず自分の周りに影響を与えて、何かを引き起こします。
仏教では因果と言いますよね。

例えば、自分が好き勝手やって周りに迷惑をかけてきたら、当然、迷惑をかけてきた人からは疎ましく思われ、恨みを買うこともあるでしょう。それらの人たちから悪い噂を立てられたり、場合によっては襲われたり、酷いことをされる…といったことは、まさにコメントにあったとおり

好きなことをやったのだ
代償は はらわねば

ということになると思います。
心屋くんはそういったことから目を逸したいのか、理解していないのか、誤魔化したいのか…。あるいは、本当にそんなことは無いと思っているのか。
本当に理解せず、自分がやったことに対する代償を払う必要が無いと信じているから、いろいろと批判されるようなことを言っちゃってるのかどうかは、信者様、アンチの皆様、それぞれで判断すれば良いでしょう。

結局、何が言いたいかといえば、

価値観を見直した方が良いこともある

っていうのは別に良いんですよ。それ自体は全然、反対しない。
でも、見直した結果、好き勝手に人に迷惑をかけたなら、その責任は取らなきゃなりませんよっていう、本当に単純なことが批判されているだけなんだけどなぁ…。ってことです。

で、最終的に価値観が異なっているというなら、それはそれで仕方がない。
世の中、いろんな価値観があります。
以前、僕の記事で紹介したようなヤノマミ族とか、すごいですよね。

先日書いた 「助言、対話、そして成長」 という記事にコメント(アメブロの方)をもらったので、それを受けてちょっとまた考えていることを書い...

でも、そういう絶対に相容れないような価値観を持って、しかもそれが価値観の合わない人たちに対して迷惑をかけるようであるのなら、同じ生活空間で暮らしている中で衝突が生じるということも当然ですよね。

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お釈迦様

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