先日書いた
「助言、対話、そして成長」
という記事にコメント(アメブロの方)をもらったので、それを受けてちょっとまた考えていることを書いておこうと思います。
コメントの中では、
批判と理解はむしろ相反する
ものだと思います。
というものがありました。
僕の意見は、ちょっとだけ違っていて批判と相反するのは、理解ではなく「賛同」だと思っています。
賛同するけれども、批判するというのは矛盾していますよね。
(一部には賛同するけれども、別の部分は批判するということではなく、同一対象に対して賛同と批判が両立するということです)
相反するというのは、そういうことだと思っています。
一方、理解するというのはどういうことか?
こういった意見交換、議論を実施する際に、お互いの主張について正しく知ることが重要だと思います。これが理解するということ。
そして「正しく知る」というのは、その主張の結論だけではなく、「何故その主張に至ったのか?」という理由や背景まで知ってこそ、正しく知ったと言えるのではないかと思います。それが無ければ、単に相手の主張を無批判に受け入れただけに過ぎません。
では、正しく知るためにはどうしたら良いのでしょうか?
「議論を尽くす」
と言ってしまえば簡単ですが、実際には容易なことではありません。
ネット上での議論のように、相手と言葉(テキスト)だけによるコミュニケーションを取っている場合は特に難しい。
しかし、かと言って、「わかってくれない」「伝わらない」「わからない」と諦めてしまってはその先がない。コミュニケーションが成り立たなくなってしまいます。
人が他の動物と大きく異なる点の一つが「言葉」だということに異論は無いと思いますが、その「言葉」を適切に使うことによって、相手との意思疎通をはかるというのは、これからの時代、ますます重要になってくるのではないかと思います。
日本がハイコンテクストな社会と言われているのは先日書いた「ハイコンテクストな集団」という記事の中でも述べたとおり。
そのような集団の中で、お互いに誤解を与えること無く言葉だけで意思疎通するのは大変ですが、やはりそこは情報を発信する側、受け取る側、双方の努力と注意によって成し遂げていくしかない。
(ちなみに、私はこのような文字だけによる意思疎通を適切にするために『RFPの読み方』という研修メニューも持っています…。と、ちょっと宣伝(笑))
そういった言葉によるコミュニケーションに慣れていない(議論や意見交換を論争や批判のように感じてしまう)人たちに取っては、少し苦痛を感じるプロセスかもしれません。
が、苦痛を避けて、誤解を生み、あとで嫌な思いをするか、それともお互いにきちんと意思疎通できるかというのは、時々、少しだけでも考えていった方が良いのではないかと思います。
このような努力により、相手の主張を「理解」することによって、自分の意志(自由意志)で、それに「賛同」するか「批判」するか決めれば良いことなのではないでしょうか。
理解した上で賛同することも、理解した上で賛同はしないが相手の主張を認める(人は人という態度)ことも、理解した上で相手を批判することもあると思います。
そしてそれらの意思決定は、最終的には自分の価値観が大きく関わってくるのだと思います。
今回の議論を始めるときに、私は相手の方に対して
「自分は相手の考えを変えるつもりは無いので、お互いに納得ができるまで話ができれば良い」
と伝えています。
最終的な判断は、その人の価値観で決めるべきで、考え方や価値観まで強制することはできないからです。
価値観は、その人の住んでいる国、時代、生まれてきてからの体験など、様々なものが関係して形作られます。
例えば、南米アマゾンの熱帯雨林にヤノマミ族という先住民族がいるのをご存知でしょうか?
彼らは、森のなかで出産を終えた後、その赤ん坊を人間として育てるか、精霊として返すかの選択を迫られます。
精霊として返すというのは、赤ん坊をへその緒が付いた状態でバナナの葉に包み、シロアリの蟻塚に放り込むのです。
そして、赤ん坊がシロアリに食べつくされたのを見届け、蟻塚を焼いて精霊になったことを神に報告するのだそうです。
この風習について、
「何て非人道的で残酷なんだ!」
と憤ったとしても、それが彼らの価値観なのです。
同様なことは、昔の日本で切腹が行われたり、貧しい農家の娘が売りに出されたりということに対しても同じです。
それがその頃の価値観だったのです。
ただ、日本では切腹が無くなったりもしていっている。
それは、その習慣によって辛い思いをしたり、悲しい思いをしたりする人たちがいたからでしょう。
そのことが、社会のコンセンサスになり、価値観が変わっていった。
ヤノマミ族の場合は、我々とは違う価値観の集団が違う世界に住んでいる。
切腹の場合は、我々とは違う価値観の集団が違う時代に住んでいた。
その場合、相手の価値観に対して、評価を下し、相手を変えようとすること自体がナンセンスです。
(侵略戦争や植民地化の場合などは、実施されることがあるでしょうが…)
しかし、異なる価値観でかつ、相手の価値観が自分の生活圏・行動圏に関わってくる場合は衝突が起こります。
「スピ系の何が問題か」という記事でも書いたとおり、同じ価値観を持つ人達だけで閉じた世界を作っているなら、それはそれで問題ないのです。
今回の意見交換の中で出てきている、心屋氏の「叩かれるために生まれてきた子供」発言はまさにそのあたりに関わってきていると思います。
心屋氏が、クローズな場でそういうことを口にし、当事者だけが耳にしたというなら問題にならない(というか、知られていないから問題として上ることがない)。
ところが誰でも読めるブログでそれを書いてしまったから炎上してしまうわけです。
それは価値観の衝突を生むから。
心屋氏は、ひょっとすると意図が正しく伝わっていない…と言うかもしれません。
(その後のブログを見るとそうは思えませんが…)
ただ、それであれば、「相手が悪い」ではなく、きちんと丁寧な説明を心掛けるべきでしたし、今後もそうするべきです。
そうではなくて、別に自分は自分のやりたいようにやる というのであれば、それはそれで良いでしょう。
ただ、その際は、周りから批判がある可能性については、甘んじて受ける覚悟も必要で、自分は好き勝手やるけど、批判されるのは気に入らないというのであれば、単なるワガママなおっさんと見られても仕方がないでしょうね(笑)。
話をちょっとだけ戻すと、相手の主張を理解するということは、最終的には、相手の価値観を理解するということになるでしょう。
そして、その価値観の違いを乗り越え、お互いを認めながら共存していくのか、あるいはお互いの価値観を止揚させ、より高い価値観に到れるかは、衝突している人たちの人間的成熟度にも依存するのかもしれません。