もう20年以上も昔、今でいうスピ系に興味津々の人がいて、その人は「テレパシーが使えるようになりたい!」とか、「薬に頼らず、病気を治せるヒーリングパワーが欲しい!」とか「この世から、お金を無くしたい!」とか言ってたわけなのですが、ある別の人に
「あなたの言っていることは、動機と得られる結果は同じで、ただ手段だけを置き替えたに過ぎない」
という指摘を受けていました。
そこには精神性という意味での変化は全く見られなかったわけです。
所謂、スピ好きの人が「引き寄せの法則」とか、よく言ってますが、これも全く同じで、動機も得られる結果も変わらず、ただ「楽に」結果を得たいということしか自分には見えてきません。
もちろん、何かをするときに効率的な方法を探るのは悪いことだというつもりはありませんが、そこに付け込んでくる輩が多いのが気になります。
この問題は、スピ系だけではなく、変なカウンセリングに引っかかる場合も同じなのだろうと思います。
スピ系に嵌まる人たちも、カウンセラーに依存する人たちも、ある意味、自分のことが気になって仕方がないのかなぁという気がします。
自分が他の人から、どう見られているのか?
自分が世の中に、どう影響を与えているのか?
自分が…
自分が…
自分のことを見つめ、世の中で果たすべき役割を考えるのは大切なことだと思いますが、それを考えるときに視点が自分にしか無いと、偏った見方になり、歪んだ結論を導き出しかねません。
NLPではポジション・チェンジといって、
- 自分の視点
- 相手の視点
- 第三者の視点
それぞれの視点から物事を捉えることが求められます。
そのように様々な視点から物事を見る習慣をつければ、少なくとも、世の中から顰蹙を買うような行動は少なくなると思うのですが、視野が狭くなってしまうと、なかなか難しいのかもしれませんね。
以前も「自由意志と運命について」という記事で書いたことがあるのですが、コンサルタントやカウンセラーと呼ばれる人たちの役割というのは、そのように視点が凝り固まってしまった人たちに対して視野を広げてあげる、あるいは視点を上げてあげるということでしょう。
単に別の視点に移し、そこに固定させてしまうということではありません。
タイトルに書いたような精神レベルでの水平移動にとどまるようなアドバイスしかできないようではちょっと困るなぁと思います。
話を戻すと、自分は他の人からどう見えるかが気になっていたとしても、他の人は意外と自分のことなんか気にしていないものです。
昔、武田鉄矢が出ていた「刑事の現場2」というドラマの中で、刑事が犯人に向かっていうセリフに、このようなものがあります。
「みんな自分の人生背負って精一杯忙しいんだよ!
お前の人生に、その退屈な人生に付き合ってる暇は。ねぇんだよ!」
これって、全くその通りです。
必要以上に、他人の目を気にする必要は無いと思います。
そして、自分が世の中に与えている影響。
もちろん、多かれ少なかれ、影響を与えていると思います。
でも、それはやはり自分のできる範囲で役割を果たしていれば良いのであって、必要以上に自分を大きく見せる必要も無ければ、それを期待している人も、自分で感じている程には多く無いと思います。
(必要以上の期待を寄せている人もいるかもしれませんが、それはその人の問題であって、自分の問題ではありません)
某心屋氏の本やブログに出てくる「ダメンズメーカー」という言葉。
倉田真由美さんの「だめんず・うぉ~か~」をもじったのかどうか知りませんが、僕はこの言葉に非常に違和感を感じます。
「私がダメ男を作ってしまった」「私がダメ男にしてしまった」
…と、思うのは勝手ですが、恐らくダメになった男は、自分がいてもいなくてもダメになったでしょうし、その男の人生に、そんなに自分が影響を及ぼせるような大きな存在でいたいという願望の現れにしか見えません。
(ここでも「自分が」という視点が強烈に出ているように感じます)
その男の人の意志とかって、全く考えることは無いのでしょうか?
同じようなことを「引き寄せの法則」とか言っている人たちにも感じることがあります。
例えば、「思いがけず、嫌いな同僚が転勤になった」とか「離婚したかった夫が急に応じてくれた」とか…。
何をどう解釈しても勝手ですが、ここでも「自分」の視点ばかりで、起きた事実に関わってくる人たちの視点が全く無いということに驚きです。
自分の周りの人達は、自分の人生の中のオブジェか何かだと思っているのか、その人達にも人生や意思というものがあるということが全く想像すらできていないように感じてしまいます。
自分以外がオブジェなら、人に迷惑をかけようが何しようが、自分の好きなことだけ出来ますよね。
先程の動画の中でも、
「人間は、生きているうちに殺したいほど憎い奴に出会うことがある。
だが、普通の人は殺さない。殺せない。
こいつにも親がいる。こいつにも惚れた男か女がいる。
そう思うと、そいつが人間に見えて、だから人間は人間を殺さない。そして殺せない」
というセリフが出てきます。
普通の人は、誰かを見たときに、その人が人間に見えるものなのではないか、と思います。
ところが、「自分」という視点しかなく、他人が人間に見えてない人になってしまうと、おかしな行動がおかしいと思わなくなってしまうのかもしれません。
コメント
はじめまして。
ゆりさんのブログからお邪魔をさせていただきました。
自分の人生…。
重い言葉です。
この言葉の重さを感じているのならば、幸せが何かということも分かると思います。
スピ系の教祖様たちが「お金と幸せの両方を手に入れて欲しい」と良く言います。
個人的には、その両方を手に入れていない人の方が多く存在しているのでは?
お金を持っていたらどのくらい幸せなのか。
幸せならどのくらいお金を持持っているのか。
愚問ですね。
加々見さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
加々見さんが「愚問ですね」とおっしゃっているように、「お金と幸せの両方を手に入れて欲しい」ということ自体が愚問と感じます。
そもそも、その2つって同列で語られるものでしょうか?
お金ってツールでしかないです。
「あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ」
という記事にも書きましたが、お金によって多くの物理的自由を得ることはできます。
でも、それだけです。
人の幸せは、その人にしかわかりません。
まあ、お金はあるに越したことはないですが、自分は、ある程度の額を稼いでからは、それ以上は別に要らないですね。
むしろ、精神的に自由でいたい。