そう、好きにすればいい(但し、責任が取れる場合に限る)

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連日、某心屋氏のブログに関するコメント的なことを書かせてもらっているのだが…。
(ネタの提供、ありがとう、ありがとう)

今度は、こんなブログを書いていた。

細かいところは取り敢えず置いておいて、彼がここに書いてあるとおり、基本的には個人個人の好きにすれば良いと思う。

ただし、それは人に迷惑をかけず、自分自身で責任が取れるという前提において、ということである。

全く関係ない、当事者以外の外部からの評論について気にする必要はない。
(もちろん、自分が正しいと信じているのなら…)

だが、その一方で人に迷惑をかけないでという前提も、実は非常に難しい。
人に迷惑をかけないというのが直接的なものだけではなく間接的なことも含んでということになるからだ。

目の前にいる関係者だけのことであれば、話は簡単。
しかし社会で生きている以上、多くの人が思いがけず、いろいろなところで繋がっている。
だからこそ社会には法律にしろ、社会的慣習やマナーにしろ、いろいろなルールがある。
そしてそのルールを破るということは、その社会に属する人たちが迷惑を被る可能性があるということ。

例えば、人を殺しておいて、警察が来たときに

「お前に関係あらへんやろが!!」

なんていうことが通用するわけはない。そんな人間が野放しになっていることは安全で安心な社会生活を脅かすことになる。
ただ、実際に罰せられるかどうかは、その後の裁判などで決まることになるだろう(正当防衛とか)。

さて、このように、殺人ですら実際に罪になるかどうかは、個別に考える必要があるのだが、以前、心屋信者の人とやり取りをしていく中で書いたブログがこちら

心屋仁之助信者との対話シリーズ(笑) さてさて、心屋仁之助を批判する人たちが、よく出す例 「猫を殺しても良い」 心屋氏の言う「...

内容は実際に読んで欲しいのだが、多くの人が関わり合っていくこの世界で、誰にも迷惑をかけずに生きていくというのはなかなか難しい。しかし、

猫を殺しても良い

ということと

猫を殺してしまうこともある

というのは、意識の上で根本的に違うのだ。
(このやり取りをしていた相手は、どっちでも同じと思っていたようだが…)

「〇〇しても良い」という意識に改善の余地は無いが(改善する必要すらないのだから)、「〇〇してしまうこともある」という意識は、しない方が良いとは思っているので、改善・成長を促す。

言葉の使い方というのは非常に重要で、それこそ心屋くんの言っているように、一つの言葉でも人の数だけ受け取り方が違う。だからこそ言葉遣いには慎重になるべきなのだ。

もう一つ、以前に書いたブログ

心屋仁之助信者との対話シリーズ (いつからシリーズになったかは知りませんw) 現時点でも、まだtwitter上での意見交換は続いてい...

もう20年近く前に書いたブログを紹介しているが、ここでも
「言葉というのは人によって感じ方が違うから使いどころを考えるべきだ」
ということを訴えかけている。

繰り返しになるが、心屋くんが書いているように、みんな好きにすればいい。
しかし、好きにすればいいということと無責任になっていいということは違う。

自由には責任が伴う。

そして、その責任を取る気持ちと覚悟と、実際に負える責任の範囲で、自分の自由の範囲も決まってくるのだ。

その説明ができないまま「好きにすればいい」などということは無責任に言うべきではないし、それこそ、自分の言葉が及ぼす影響範囲と、その影響に対する責任を負う覚悟を持ってメッセージを発するべきなのだ。

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