何故、猫を殺してはいけないか?

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心屋仁之助信者との対話シリーズ(笑)

さてさて、心屋仁之助を批判する人たちが、よく出す例

猫を殺しても良い
心屋氏の言う「○○しても良い」の一つです。

普通に社会生活を営んでいる人なら

いや!ダメでしょ!

って言う人が多いと思います。

私が、この「○○しても良い」に対して、

「反社会的なものでなければ文句を言う人も少ないのではないか」
「借金を返さなくても良い」とか「猫を殺しても良い」はNG

という意見を投げかけたところ、今、意見交換をしている心屋信者が奄美のノネコ問題( https://sippo.asahi.com/article/10563875 )を例にして

猫を殺しても良い

という言葉は、本当に反社会的なのか?という問題提起をしてきました。

内容は

  • 人間が持ち込んだ猫が、希少生物を絶滅に追いやるかもしれないという状況でも、「絶対に猫を※すな」と言う人達がいる。彼らは反社会的行為を糾弾する立派な人間か?
    → むしろ物の見方の偏った人間ではないか?
    → 捕獲する人も猫を殺したいわけでも、良い気持ちでそうする訳でもない
  • 全てのペットに言えることだが、万が一自分が飼えない状態になって、手を尽くしたが次の飼い主を見つけられなかった時、野に放つのではなく保健所に連れて行くのが飼い主の責任だと私は考える。
    → だから猫を飼うことは「猫を※してもいい」と覚悟した上ですることだと思っている

という主張です。

彼女の言いたいことは、何となくわかります。
要するに、

人間の身勝手な理由で、飼い猫を捨てることによって生態系に影響を及ぼす。
様々な手を尽くし、最悪、殺すしか選択肢が無くなった場合、猫を殺す覚悟がない人は猫を飼ってはいけない

ということだと思います。

※ちなみに、意見交換したかったのは、猫を殺しても良いのか悪いのかというジャッジではなく、どういう理由から、その価値観を持つに至ったのかということです。

彼女の言っていることに対して、いくつか考えるべき点があります。
まずは

「猫を殺さなければならないこともある」=「猫を殺しても良い」

ではないということ。
これは、「カルトの一般化・歪曲・省略について」という記事でも書いたとおり「一般化」が行われている例かなと思います。

もちろん、彼女の言う通り、捨て猫によって希少生物が絶滅に追いやられる危険性を考え、捕獲・殺処分しなければならないことも出てくるかもしれません。
ただ、それはあくまでも「ある一定の条件の元で」実施される例であり、一般的な事例とは言えないと思います。
更に言えば、やはりそれでも「殺しても良い」という表現には問題があると思います。

「~しても良い」

という表現に、「権利を持っている」「許可を与えられた」という意味を感じ取る人もいるからです。

「私は猫を殺しても良い」

という言葉から、「誰にその権利・許可を与えられたのか?」と考える人もいるでしょう。
(たとえ、自分がその権限を与える立場になかったとしてもです)

一方で、「私は猫を殺さなければならないこともある」という表現であれば、「なぜ?」と、その理由を考え出すでしょう。

「~しても良い」

という行動を促すような表現は、外部に影響を与えるような場合は特に、そのような解釈をされやすいと思います。
(「無理しなくても良い」とか「人のことを気にしなくても良い」などの表現であれば、自分自身に対する許可なので、特に何も言われないでしょうし、言ってくる人はむしろ過干渉だと思います)

一般的に言って、条件がつかず「猫を殺しても良い」という表現を見たら「無条件に猫を殺しても良い」と読むのが自然な気がします。


では、なぜ「猫を殺してはいけない」のか?

日本の場合、「動物愛護法」で禁じられているから、というのが簡単な理由なのですが、欧米などでは、何かあった場合、苦痛を与えず安楽死させるという考え方もあります。
これは、「批判と理解について」という記事にも書いたとおり、ある意味、「価値観」の差異としか言いようがない部分もあります。

例えば、「猫を殺すのは絶対にNG!」と言っている人に対して、

牛や豚を食べるために殺すのは良いのか?

と訊いたらどうでしょう?

「いや、自分はヴィーガンだから」

と答えるかもしれませんね。
では、野菜・果物など、植物性のものしか口にしないとして(植物だって命なんですけど…)、それらの植物を育てるために使う殺虫剤、農薬などで殺される虫や小動物は?自分で手を下さないから構わない?

「いや、自分は自然農法の食べ物しか食べないので…」

結局、どこまで行っても、人が行きていく中で、必ず他の生き物の命に関わっているんです。
だからこそ、我々は、何かを食べるときに

いただきます

と言うのだと思います。
これは、食事を作ってくれた人に対する感謝と同時に、

命をいただきます

なのだと思います。

(余談ですが、最近、給食などのときに「金を払ってるんだから『いただきます』と言わせないでくれ」とかいうトンデモ保護者がいるらしいですね。食事を作ってくれた人に対する敬意も、命に対する感謝も無いのもそうですが、そもそも社会に出るにあたってのマナーも礼儀作法も学ばせず、単なる経済活動しか目に見えてないって嘆かわしいです)

だからこそ、自分としては、心屋氏の関係者がやっている

「わざと食べ物を汚く食べる、わざと食べ物を残す」

というワークに対しては、店に対して客という優位性を利用した、単なるパワハラにしか見えないのと同時に、命を粗末にしているという残念な人たちという感情しか湧きません。

さて、話を戻して「猫を殺しても良いのか」という問題。

先程、書いたように、最終的には価値観・主義・主張の問題に帰結するのかもしれません。
一方で、社会の中で生きていく際に、他の人との関わり合いを全く無視して生活するわけにもいかないでしょう。
だからこそ法律が作られ、社会で人と人とが関わり合う中、不要な争いを避け、社会が成り立っていくようにしているのが法治主義の社会なのだと思います。
(ただし、自分がルール至上主義ではないというのは「自由になるということ」という記事でも書いています)
少なくとも日本の社会では、意味もなく「猫を殺す」というのは罪になります。
そのルールを守りたくないのであれば、別の国に行ったほうが良い。
「借金を返さなくても良い」と思っているのも同じです。

これが「~しなければならないこともある」という表現に変わっただけで、印象は大きく違ってくるというのが自分の考えです。

それでも尚、心屋氏とその関係者が「○○しても良い」という表現にこだわるのであれば、それはやはり、何か別の意図があるんだろうという気はします…。

聖書には

口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである

という言葉があります。
言うまでもなく、「口から出ていくもの」というのは言葉のことであり、それは「心の中」から出てくると言っています。
その他にも、聖書の中には「舌を制御することは、だれにもできません。」など、言葉を適切に使うことの大切さ(ひいては心のあり方)について語られているところがたくさんあります。

「言葉に気をつけなさい~」
というマザー・テレサの言葉があります。
言葉は、いつか行動を生み出します。
自分の言葉と行動の不一致は、心の違和感を生み、行動に反映されるからです。

そういった意味でも、安易に「猫を殺しても良い」「人を傷つけても良い」などという言葉は口にしないのが賢明だと思います。

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