寛容と自制とパーソナルスペース

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幼稚園児の子供の声に腹を立てて脅迫状を送った老害が逮捕されました。

うるさいと怒り園児宅に“脅迫状”か 逮捕
http://news.livedoor.com/article/detail/16595801/

事件の概要は、幼稚園の送迎バスを待っていた子供の声がうるさいと、園児の自宅の郵便受けに

「子どもたちを静かにさせろ。出来なければ何があっても文句は言うな」

と書いた脅迫文を入れた疑いで71歳の男が逮捕されたというもの。

それとは全く別の事件ですが、ベンチに座っていただけで不審者扱いされたという記事も出ていました。

公園のベンチに座っただけで通報されたおじさん 不審者扱いの理由は「普段は見ない人。スマホを使っているから盗撮かも」
https://news.livedoor.com/article/detail/16569333/

こちらは、「子供を守るため」という大義名分があるとはいえ、ベンチに座ってスマホを見ていただけで不審者扱いされてしまったのでは、通報された側としてはたまったものではありませんね。

両方の出来事に共通するのは、自分の頭の中にある不可侵領域と、社会で許されている領域に「ずれ」が生じていることでしょう。

脅迫文の例では、送迎バスを待っている時間なんてせいぜい1十数分といったところでしょうし、送迎バスが通っているということは、近隣一体が自分の土地というわけでもないでしょう。

不審者として通報という件は、記事を読んだ限りでは、公園という公共スペースに毎日、1日中座って怪しい行動をしていたわけでもなさそうです。
単に通報した人たちの「普段付き合っている」コミュニティ外の人間だったというだけ。

どちらも、あたかも自分の知覚している領域に絶対的な権利を持ち、相手がその権利を尊重するのが当然だとでもいうような行動をしています。

以前、「自由と責任」という記事の中で、

良い歳した大人が、自分の望む自由の大きさと自分の取らなければならない責任範囲の認識が一致していないなんてイタすぎる。

ということを書きましたが、同じ構造を持っているように思えます。

自由には責任が伴う 使い古されたような言葉ですが、元々はフロイトの言葉のようです。 界隈の人たちは、その言葉の意味を考えることもない...

自分はこういうことをする権利(自由)を持っている。しかし、実際のところ、社会はそこまでの自由を認めているわけではない…ということです。

西出和彦氏によると、パーソナルスペースは、以下のように分類されるそうです。

排他域

  • 50 cm 以下。絶対的に他人を入れたくない範囲で、会話などはこんなに近づいては行わない。

会話域

  • 50 cm – 1.5 m。日常の会話が行われる距離である。 このゾーンに入ると会話することが強制的であるような距離圧力を受ける。すなわち会話なしではいられない。もし会話がないときは何らかの「居ること」の理由を必要とする。

近接域

  • 1.5 – 3 m。普通、会話をするためにこのゾーンに入るが、会話をしないでこのゾーンに居続けることも不可能ではない。距離圧力としては微妙なゾーンであり、しばらく会話なしでいると居心地が悪くなる距離である。

相互認識域

  • 3 – 20 m。このゾーンでは、知り合いであるかどうかが分かり、相手の顔の表情も分かる。普通、挨拶が発生する距離である。特に、3 – 7 mの距離では、知り合いを無視することはできない。

脅迫文を出しちゃった人や通報した人は、排他域が異常に広いんですかね?(笑)
まあ、じっさいのところは、相手によっても差があり、敵視している人に対してはパーソナルスペースは広くなるらしいので、敵視している人(あるいは単に親密ではない人)がとても多いのかもしれません(笑)。

多種多様な考え方があり、いろいろな人たちと関わっていく必要がある社会の中では、物理的にも精神的にも、個々人の持つパーソナルスペースが触れ合い、重なり合って生きていかざるを得ません。
その中でうまくやっていくためには、

相手の考え・行動には寛容に、自分の行動は自制して

というのが基本的なスタンスになると思います。
まあ、そんなこと、まともに社会生活を送っている人なら言うまでも無いことなのですが…(笑)

逆に、自分は好きにするから、自分のやることは受け入れろ、相手のことは(必ずしも)受け入れないという人間ばかりならどうなるか?ちょっと考えれば想像がつくでしょう。
「相手は、自分が思っている程、気にしないかもしれない」
なんて、無責任なことをいう輩もいますけどね(笑)。

システム思考で使われるループ図の中には、自己強化型ループと呼ばれるものがありますが、自分と考えの合わない人は排除し、自分は相手の考えを受け入れないのであれば、そのような人たちの周りは、ますます同じような人たちだけが集まり、まさに類は友を呼ぶという状態になっていくでしょう。
まあ、そういう状況を望んでいる人たちが集まっているのですから、周りがとやかくいうことではないのでしょうが、これだけ情報が入手しやすい環境の中で、なぜ、そんな状況に陥っていくのか…。

いろいろと原因はあるのでしょうが、傍から見ていると、何とも見苦しい人たちだなぁと思います。

そのうち、成長と進化と縄張りの関係について書いてみよう…。

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