自由には責任が伴う
使い古されたような言葉ですが、元々はフロイトの言葉のようです。
界隈の人たちは、その言葉の意味を考えることもないのか、あるいは考える頭が無いのか、(一見)自由を謳歌しているように見えます。
上に書いた言葉のとおり、大きな自由には大きな責任が伴い、些少な責任しか取りたくないのであれば、少しの自由しか持てないのだと思います。
先日、「スピと似非カウンセラーと厨二病」という記事を書きましたが、精神的に未熟だということは、世の中の認識が未熟であるということで、かつ視野が狭いということと言って良いでしょう。
世界の果てまで行けると思い込んでいた孫悟空はどうだったのか?
厨二病の持っている世界の認識は、周りから見れば滑稽であり、迷惑でもあります。
社会の中で生きていれば、少なからず周りに影響を与えていくもので、だからこそ人は大人になれば自分の言動に気を遣いますし、行動や言葉に責任を持つようになってきます。
大人になるということは、自分の言動の影響を正しく把握できるようになるということも言えるかと思います。
盗んだバイクで走り出せば、おまわりさんに捕まりますし、校舎の窓ガラスを割ってまわれば通報されます。
誰にも縛られたくないと夜に逃げ込んでも、そんなものは社会に生きているのであれば15歳のガキンチョの妄想でしかないのです。
「好きにしていい」「やりたいことをやればいい」
と、自分の行動に許可を出すことは構いませんが、自分が認識していようとしていまいと、周りに影響を与えれば、それに対する責任は取らなければなりませんし、同様に将来の自分に対しても自分で自分の行動の責任を取る必要があります。
何か起こったときに
「知らなかった」「わからなかった」
では済まないことも当然あります。もちろん「誰も教えてくれなかった」などという言い訳が通じるはずもありません。
小さな子どもは、目の前のことしか見えません。
布団に潜ってしまえば、もう目の前にいないのと同じなのです。
良い歳した大人が、自分の望む自由の大きさと自分の取らなければならない責任範囲の認識が一致していないなんてイタすぎる。
等価交換で成り立っているこの世界
自由は欲しいけど、責任は取りたくない・取らない
ではどうなるか?
取らなかった責任の分、信用を失います。
「何をしてもいい!」
という妄想で得た自由の対価は何でしょう?借金なのか、(本人は自由だと信じているが)教祖様の魂の奴隷となって思考能力を失っていくことなのか…?
宇宙銀行?存在給?
…笑えます。