年末に脳科学者である中野信子氏の書いたこのような記事を読んだ。
(リンクは魚拓です)
このブログの中でも「自称正義の味方」のめんどくささについては何度か書いているが、ここ2年程はコロナ禍による社会の激変の中、人々のストレスも溜まっているのか、さまざまな正義の味方が問題を引き起こしてきたように思う。
記憶に新しいのは、マスク警察。
コロナ拡大を防ぐためという大義名分のもと、お願いに過ぎないマスク着用を「強要」し、挙句の果ては、店の営業を妨害したり、県外ナンバーの車に嫌がらせをしたりという犯罪行為に至ったりすることがよく見られた。
そのような自称正義の味方の行為が引き起こした悲劇がこれ。
マスク非着用を注意された男の暴行により、注意した男性は下半身不随となってしまった。
暴力を奮った人間が確実に悪いのだが、これは防げなかった事件だったのだろうかと思うとかなり疑問がある。
- 事件があったのが屋外のコインパーキングであったこと。
そんなところで、マスクをしていないことが「感染拡大」にどれだけの影響があったか疑問 - 県が不要不急の外出を控えるよう呼びかけていた(これもどうかと思うが…)中で、男性が知人女性と昼食に向かう途中だったこと(普段から一緒にいた女性?)
その場にいたわけではないので、想像でしかないが、恐らく、わざわざ近づいていって注意したのだろう。
その方が感染拡大に影響するような気がするが…。
自分の中で「マスクを着用すること」が絶対の正義になってしまい、そのルールを守っていない者は、悪。
そして、自分はそれを是正する責任と権利があると思い込んでしまったのだろう。
記事によると、「過去にも道行く人のマスク未着用を注意していた」と書いてあり、「新規感染者数をチェックし、日々の増減に一喜一憂していた」とあるので、もはやゲーム感覚であったのだろうと思う。
もちろん、自身にはそのような感覚は無いだろうが、自分の行動と(それには直接の関係は無いのだが)感染者の増減というスコアが結びついてしまい、感染者が減ったり、増加スピードが減ったりすることに快感を得ていたのだろうと思う。
ネット上のコメントを見ると、「放置すると注意する人がいなくなる」という意見もチラホラ見かけるが、これは見て見ぬ振りをしろということではない。
その正義が「自分の意見の押し付けになっていないか」を考える必要があるということなのだ。
以前、矛盾が生まれる理由についてちょっと書いたことがある。
事実は一つでも、それをどう認識するかによって人の解釈は変わるし、ましてや正義か悪かというのは、立場によって判断がわかれることであるというのは、心に留めて置く必要がある。
(だからこそ、社会のコンセンサスとして法律が作られているし、その法律の解釈ですら幅があるので裁判が行われます)
では、自分にとっての正義とは何なのか?と考えた時に、それは自分と他人の「自由」を侵さないということなのだろうと思っている。
当然のことながら、それは自分勝手に振る舞うことでも、それを許すことでもない。
束縛される条件を可能な限り少なくしていくことなのだろうと思っている。
人が社会の中で、他者と関わりながら生きていくことを考えたとき
また、刹那主義に陥らず、自分の人生を生き、更には自分に続く次世代への影響を考えたとき
自分の考え方、行動、言動が将来の自分や周りとの関係を形作っていくし、自分の自由度の高さが自分以外の不自由度を高めることに繋がる可能性もある。
自分が認識している世界が、生きているその瞬間、自分だけのことなのであれば、他人から金銭を盗み、好き勝手に使い、気に入らなければ相手を押さえつけ、行動を強制することによって、自分の世界の自由度は高くなるだろう。
しかし、少し視野を広げれば、自分以外の人たちが迷惑を被り、その人達の自由度が下がり、また将来的に自分自身も信用を失い、借金でクビが回らなくなるかもしれないという可能性について想像がつくだろう。
自分の世界に閉じこもり、それを不自由とは思わない生き方を選ぶのか、選択の自由度を上げ、世界を広げていくのか、それはその人自身の選び方とも言えるので、生き方自体には口を出す必要は無いのだ(自分が迷惑を被っていない限りにおいてということではあるが)。
人の言動が周りに影響を及ぼすと書いたが、一般的に言って、自分の自由度を上げると、他者は自由度が下がるということが多い。
それは、例えば、自分が他者からお金を奪うと、奪われた人間はお金を失うということで考えればわかりやすい。
では、自分自身への悪影響を避けつつ、自由を侵さないようにするにはどうしたら良いのか?
一つは、分離すること。もう一つは上位システムへと移行すること
である(細かく分けるともうちょっとあるが、取り敢えずこの2つ意識しておけば良いと思う)
分離は、単純に「違う世界で生きる」ということ。
簡単に言えば関わらないということである。
もうひとつの「上位システムへの移行」というのは、言い換えれば止揚。アウフヘーベンである。
それを実現するのに重要なのは対話であり、自分自身を絶対正義としない第三者的視点をもつこと。
その前段階として、相手の立場で考えること。
「相手が間違っている、自分が絶対的に正しい」
と凝り固まった考え方は、自分自身の自由度を下げることに繋がり、それは自身の成長の機会を奪うことにもなりかねない。
そしてそれは、自分自身が最も嫌悪している存在へと相転移することにも繋がりかねないことは常に意識しておくべきだろうと思う。
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」
(ニーチェ「善悪の彼岸」より)
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