先日、心屋仁之助さんのことについてちょっと書かせて頂きました。
彼自身、結構引き摺っているようで、年末に投下した爆弾に絡めて、また記事をUPしているようです。
★ご神託 (魚拓です)
【魚拓】★ご神託 | 心屋仁之助オフィシャルブログ「心が風に、なる」Powered by Ameba
https://ameblo.jp:443/kokoro-ya/entry-12564691421.html – 2020年1月5日 16:08 – ウェブ魚拓
個人的には信者様に向けているようで、実は言い訳に見えたりするのですが、それはまあ良いでしょう。
気になったのはこの部分
「面白そうだから」「なんか、そう、思ったから」だけでえい!や!!と(ᵔᴥᵔ)たまに大怪我もするけど(したけど、させたけど)やってみんとわからんやんか!!!!やってもないやつがうだうだ言うな!
一見、これは正しく見えます。
そして、実際、実体験を伴わないままに、いろいろな薀蓄を語りだす人がいるというのも確かです。
しかし、世の中には体験した方が良いことと体験しない方が良いことがあるというのも、また確かなことですし、世の中のあらゆることを体験できるわけでもありません。
以前、「読書と成長、進化」という記事を書いたことがあります。
この記事の中では、
体験から学ぶというのは、人間以外の動物でもできることです。
単純な神経系しかもたない生物にも学習機能は見出すことができます。自分以外の個体の経験から、自ら体験したのと同様に「学び」が得られるのは、人間の人間たる所以と言えるでしょう。自分が自分の視点からだけ、物事を見て、感じ取るのではなく、相手の視点から、あるいは第三者的な視点からも、物事を見て、感じられる共感力を持っているのは、人間の大きな特徴です
ということを書いてあります。
また、以下のようなことについても書かせて頂いています。
自己の体験のみに価値を見出し、それ以外の情報・知識を否定する態度は、オウム真理教事件で、世の中のエリートと言われる人たちが次々とカルトに嵌っていった事実からも、非常に危険な態度だと言わざるを得ません(彼らは、まさに頭でしか知識を学んでこなかったエセ・エリートと言えるかもしれませんがw)。
この記事で書いたことの中心テーマを改めてここで述べさせて頂くと
人間は個人個人として生きているのと同時に、人類全体として経験や知識を共有し、成長・進化していく魂としての群体を形成していると言っても良いでしょう。
ということです。
話を心屋氏の言葉に戻すと、
ということは、人間がこれまで蓄積してきた知識・知恵からは学ばず、魂の群体からは切り離された存在になりたいということにも繋がります。
もちろん、やってみた方が実体験として理解しやすいといういうことはあるでしょう。
しかし、そのような学び方しかできないのであれば、いずれその人間は破滅へと導かれる可能性が高い。
そうならないために、人はこれまで膨大な知識・知恵を共有し、歴史から学び、仲間の体験から学ぶということを繰り返しているわけです。
むしろ、我々は、今回、心屋氏に起きたことを反面教師とし、彼と同じ轍を踏まないようにするということができれば、彼の一連の行動も無駄にはならないと言えるのかもしれません。