人に対する信頼と愛情と侮蔑と過小評価

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いつも勉強させていただいているこちらのブログ

数日前の記事になりますが、ちょっと気になるフレーズがあったので引用しておきます。

弱者に優しさと救済を!というのは弱者の本来の能力を馬鹿にしていたり、個人の力を信用していないようにも私は感じる。

これには全く同感です。

ちょっと前に、ネット上で「叩き上げは弱者に冷たく、生まれながらの富裕層は弱者に優しい」みたいな発言を見ました。

この言葉の真偽はともかく、僕は叩き上がってはいませんが(笑)、生まれながらの富裕層ではないというのは確かで、怠け者に対しては、どちらかと言えば厳しいところもあります(「どちらかと言えば」くらいで、自分に関わりがなければ放って置くことの方が多いですけど)。

僕は自分で会社を経営しているということもあるのですが、基本的には「個人事業の集まりが最強の組織」というのを持論にしています。
自分自身の責任を自分で取れる人の集まりだからこそ、他の人の足を引っ張ることがなく、シナジーを生み出せるという考えからです。
もちろん、自分の弱いところを他の人の強みで補うことができればベストです。

僕の持論を人に言うと
「自分でできる人ばかりじゃない」
という意見をかなり聞くのですが、僕は別に、自分の能力以上のことをやれと言っているわけではなく、自分の能力を活かしなさいと言っているだけです。

そして「人は自力で生きていけるように生まれている」とも思っています。

最初に引用した佐藤小町さんの言葉は、そこに通じていて、そういう弱者(と呼ばれる人たち)に対して、「自分でできない」と断じてしまうのは、そういう人たちに対する信頼と愛情に欠けるのではないか…という気が少しします。

ちょっとスピリチュアル的な物言いになってしまうけれども、人は何故、この世に生まれてきたか?といえば、生きるために生まれてきたのだと思います。
叩かれるために生まれてきたとか、病気になるために生まれてきたわけではなく、他の誰かのために生まれてきたわけではなく、自分自身が生きるために生まれ、そしてそのために自分に与えられたものを最大限に使うということが必要なのではないかという気がします。

そして、冷たさと厳しさというのも違うし、優しさと甘さも違うのではないかと思っています。

人に対する愛情を持っていれば、そしてある程度の期間をもって相手を見守るつもりがあるのならば、時には厳しく接するということもあるのではないでしょうか。

単に一時だけの不快な感情で相手のことを冷たいと断じたり、逆に一時的な心地良さだけで、相手のことを愛情がある優しい人だと評価するのはどうかなぁって思います。

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厳しさ

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