信用と信頼と詐欺と教祖

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信用と信頼がごちゃごちゃになっている人が結構います。
まあ、実際のところ曖昧になりがちな言葉ではあるのですが…。

ビジネスの世界で「『信用』が大切」とか「信用第一」などという言葉をよく聞きます。
もちろん、それは正しいと思いますし重要なことなのですが、誤解を恐れずに言えば、相手からの信用を得るということは、究極的には相手の信頼を勝ち取ってビジネスに繋げるということです。
例えば、

  • お客様からの依頼を常にきっちりとこなす
  • 高品質の商品を納める
  • 納期に遅れない
  • 仕事にミスがない

などなど…。

あるいは、何らかの保証がある、担保があるなどといったことも信用を得るための方法です。

つまり、相手に対する実績や、所有しているもの・こと・スキル、他の人や機関からの評判や保証など、その相手に対する評価が「信用」になります。

先程書いたビジネスの世界で言えば、そのような信用を積み上げ、評価を高めることによって相手の信頼(期待)を得ることによって

「この相手なら仕事を任せても大丈夫『だろう』」

という未来への結果に繋がるわけです。

英語で Credit と Trust と書いた方がわかりやすいかもしれません。

信頼を得るためには、信用を積み上げていくということが一つの手段であり王道なのですが、相手との関係性によっても違いますし、人によっても相手を信頼するまでのハードルの高さに違いがあります。
所謂、「騙されやすい人」っていうのは、相手を信頼するまでのハードルが低いんでしょうね…。

相手との関係が近ければ、相手が信頼できるかどうかというのは、比較的正確に判断しやすいでしょうが、相手のことを何も知らない、出会ったばかりの相手であれば、信頼できるかどうかは、全くフラットな状態から始まります。
(騙されないようにするために、相手を信じないという人もいますが、変な偏見で相手を見るよりは、ありのままに相手を見るというのが必要でしょう)

そういえば、どこかの国の元首相が、どこかの国の大統領に

“Trust me!”

とか言ったことがありましたね。
一国の代表が何言ってんねん!って思いますが、話が逸れました(笑)。

お互いに何も無いところから、相手の信頼を得るには、相手に対して信頼を得られるだけの情報を与える必要があります。
勝手知ったる間柄であれば、ツーカーで「言わなくてもわかってるでしょ、知ってるでしょ」みたいな感じになるかもしれませんが、そうでなければ、相手に伝わるように情報を提供していく必要があります。

「この分野では、こういう実績があります」とか「こういうノウハウで、このように仕事を進めます」とか、相手が自分に対して抱くであろう不安感を取り除いていくことによって信頼感が芽生えてきます。

詐欺師は、そのような不安感を取り除き、相手からの信頼を得ることによって、人を騙し自らの利益を得ます。
不安感を取り除くために、例えば投資などで小さな成功体験を経験させ、相手に自分を信頼させた後に大きく騙すというのは詐欺師の常套手段です。
都合の悪い部分を隠したり、曖昧にしたり、あるいは単純に嘘をついたりするのも、この不安感を増大させないための手段です。

信頼を得るために、信用の積み重ねが王道だという話は先程書きましたが、単純な人であれば、見掛けだけであっさりと騙されるでしょう。
「あんな高そうなスーツを着ている」「高級車に乗っている」「すごい家に住んでいる」
→ だから立派な人に違いない

実際は、そんなことは関係あるかどうかわからないのに(笑)。

あるいは高学歴だから、とか、すごい人脈があるからとか、そういったことで相手を信じてしまう人も少なからずいます。

ほんのちょっとした成功体験や、自分に対する親切により、相手の全人格を肯定するというのもありがちなパターンで、

「自分はこういう体験ができたから、あの人はすばらしい人!」

なんていうことを考えだしたら、ちょっと冷静になって自分を見つめ直して見た方が良いし、周りにそういう人がいたら、ちょっとだけ助言して挙げたほうが良いかもしれません。

ちょっとした成功体験や、自分に対する親切、あるいは助けられたという体験を殊更大きなものとして感じてしまうのは、それまでの自分の精神状態にも大きく依存するもので、落ち込んでいたり、ひどい悲しみや恐怖の中にいるときには、蜘蛛の糸のような救いでも地獄に仏のようなものに感じてしまうものでしょう。

だからこそ、それを意図的かどうかは知りませんが、暴力を奮った後に優しくして依存性を高めるDVのようなやり方で、相手のトラウマをほじくり返し、心を揺さぶった後に「何をやってもいい」と相手に許しを与えて依存性を高めるようなエセスピ系や、エセカウンセラーのようなエセ教祖たちの罪は深いと思います。

信頼できる相手だと思った人のことを、自分は何故、信頼しているのか?
一度、客観的に自分を見つめ直すことは必要なのではないでしょうか。

自分に都合の良いところばかりを見て、盲目的に信頼してしまっているということはないでしょうか?

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女性教祖

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