抽象度を高くすると幸せになるという意見について考えてみた

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ブログのコメントに

「抽象度が高くなると成功と幸せが同時にやって来る」

という教えがあるというものがありました。

先日書いた「言葉の理解とアフォーダンス」という記事にコメントがついていました。 その中で、抽象化と概念化、疑似化についての御意見が書か...

成功と幸せというのが、どういうものなのかきちんと定義が無いと、何とも言えないのですが、記憶の片隅に、同じようなことを言っていた人がいるような気がする。

確か、苫米地英人か誰かが似たようなことを言っていた気がするが、今、相当忙しいので、きちんと調べる暇はない(でも、ブログは書く(笑))。

自分なりに、この言葉を解釈すると、

「何かを区別することが悩みや苦しみを生むのだから、それをより高い視座から見ることによって悩みや苦しみが無くなる」

ということなのかなぁ…という気もしなくもない(超好意的な解釈w)。

例えば、戦争。

民族紛争だって「同じ、人間じゃん!」って思えば、争いの種は一つ無くなる。
宗教戦争だって「同じ、宗教じゃん!」って思えば、やっぱり争いの種は無くなる

世界は一家、人類は兄弟、戸締まり用心火の用心で

同じように、家族のために頑張って働いて稼いでいるという人は多いだろうが、家族じゃなくて、「同じ日本人じゃん」とか「同じ人間じゃん」と思って、自分の稼ぎを周りの人に分け隔てなく与えてしまう。

「僕のものは君のもの、君のものは僕のもの」っていう、原始共産制が完全に成り立っていれば、成功も幸せも無い。正に「ワンネス」w。

「お前のものは俺のもの。俺のものも俺のもの」

なんていうジャイアンがいなければ良いですね(笑)。

かまやつひろしの「やつらの足音のバラード」の世界ですよ。

なんにもない なんにもない まったくなんにもない ♪~

ちなみに前に「心理学と文化のこと」という記事で紹介したピダハンという民族は、個人の所有という概念が非常に薄いらしいです。恋人とか夫婦という言葉もないらしい。

純粋に、物の重さや長さ、速度や波長といったものを取り扱う物理学とは違い、心理学や精神医学の場合、人の心を取り扱うので、ちょっと注意を払う必要...

確かに、そのような心境になれば「不幸」ではないと思います。
一切皆苦を唱える仏教的に言えば、悟っている状態かもww。

ただ、それは諸法無我を実感し、一切の我を捨て去ることができてこその境地で、今の日本の社会で、それができるって凄いなぁって思います。

さて、いろいろなものの区別をつけず、より抽象的な観点で見るということですが、

区別がつかない

というのと

区別をつけない

というのは、大きく違います。

子供がまだ発達途中で未成熟のときは、自分と他人の区別がつきません。
ある程度の年令に達しても、自分の考え方が中心で、他の人の視点で考えられないというのは、先日の記事で書いたとおりです。

先日書いた「言葉の理解とアフォーダンス」という記事にコメントがついていました。 その中で、抽象化と概念化、疑似化についての御意見が書か...

人と自分の区別がつかないというのは、僕からすると不自由極まりないと思うのですが、敢えて区別をつけずに愛情を注ぐというのは素敵だなと思います。

区別がつかないというのは、自分の思考・感覚を絶対視するということですが、区別をつけないというのは、相手の立場に立って、あるいは第三者的な視点からも物事をみることができるようになるということだからです。

ところで、ここ近年、巷で流行っているアドラー心理学では「課題の分離」ということを言っています。

簡単に言えば、自分の課題と他人の課題をきちんと分けて考えなさいということで、例えば、よくあるパターンとしては、子供が勉強をせず怠けていて、親はそれに対して「将来困るよ」とか色々と、子供に対して小言をいうわけです。
でも、これは「怠けている子供」の課題であって、親の課題ではないわけです。それがなかなか受け入れられず、あたかも自分の課題であるかのように考えてしまう。

抽象化という言葉を拗らせて、周りの人の感情や感覚を、あたかも自分のもののように受け入れてしまうと辛くて仕方がないと思いますが、アドラーはそれじゃ困るよと言っているわけで…。
HSP(Highly Sensitive Person)と呼ばれる人たちは、そういう傾向にあるんでしょうか?
そういう人たちこそ「課題の分離」を意識的に心掛けていかないと大変かなぁって思います)

さて、抽象度を高くすることによって、幸せと成功がやってくるという話に戻しますが、不幸じゃなければ幸せっていうことであれば、ある意味、幸せなのかもしれません。
幸せって、本人じゃなければわかりませんし。
成功も、本人の定義次第ですが、幸せに生きていければ人生成功!みたいな人だと成功なのかもしれません。

結局「幸せ」「成功」という言葉の定義を曖昧にしていると、受け取る側が好き勝手に想定できますし、後でクレームが出たとしても「そういう意味じゃないよ~ん。ぴーひゃららー」とか言って誤魔化せるから楽なもんですね。

「幸せ」とか「成功」とか教祖が言い出したら、「具体的にどういうことですか?」って確かめましょうね(笑)。

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