先日、「同じ素材を使っても、こんなにも違うのか」という記事の中で、心屋氏が言っている「罪悪感」について少し取り扱いました。
せっかくなので、心屋氏とは関係なく、もう少し「罪悪感」について突き詰めて考えてみたいと思います。
表している漢字からもわかるように「罪悪感」は、罪を犯すことに対して感じる不快感のこと。
ここで、罪とは何か?と改めて考えてみると、これは
規範や倫理に反する行為のこと
です。(Wikipediaより)
要するに社会で形作られているルールに反することに対して感じる不快感が「罪悪感」であると定義して良いでしょう。
では、なぜルールに反することに対して、人は不快感を感じるのでしょう?
インターネットで
「なぜ罪悪感を感じるのか」
と検索するといろいろな情報が出てきますが、僕に言わせれば、しっくりとくる答えが見つからず(どこかにあるのかもしれませんが、しょーもないノイズが多すぎて探しきれませんでした)、自分なりに突き詰めて考えてみることにしました。
自分が今まで書いてきたブログの中に何かヒントは無いか探してみます…。
2年ほど前に書いた「「べき」と思ってたって良いじゃん」という記事の中には
人間の世界で、コストは大きく以下の通り
- 経済的コスト(お金)
- 頭脳的コスト(考えること)
- 時間的コスト(時間)
- 肉体的コスト(手間・労力)
- 精神的コスト(他人を気にすること)
の5種類に分けられます。
ということが書いてあります。
このうち、2番目の「頭脳的コスト」と5番目の「精神的コスト」は、ルールを破ることに対して不快感を感じる理由として考えられそうです。
人を含め、生物は、なるべく少ないコストで多くの利益を得ようとしているというのは御理解頂けると思います。
なので、既に自分が属している集団(社会)の中で決められているルールに従った方が、それを疑うよりも考える労力が少なくて済みますし、周りと同じことをやっていた方が他の人を気にすることもなくなります。
ということで、取り敢えずは、
人はルールを破ることに罪悪感を感じる原因は、ルールを守った方がコストがかからないからである
ということを仮定しておきましょう。
ところで、僕は世の中で明文化されているルール(法律など)は少ない方が良いと思っています。
ルールが決まっていると、何か課題に直面した時に、いちいち対応を考えたり、関係者と意見を擦り合わせる必要があるため、上に書いたように「考える」というコストは必要になるのですが、それ以上に自由度が無くなったり、ルールを決めた時点では想定できなかった事態が起こった時にルールに縛られてしまい適切な対応が取れなくなってしまう可能性があるためです。
なので、法律なんかは可能であれば必要最低限にすれば良いと思っていますが、その状況で社会がスムーズに回るためには、その中に生きる一人ひとりの倫理観がすごく重要になります。
倫理観というのは
人として守り行うべき道、善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるものの考え方や捉え方
のことですから、言い換えれば、その基準を外れるということが「罪悪感」を感じるということになります。
問題は、その基準が人によって異なる可能性があるということです。
物理的にしろ、精神的にしろ、近しい人たちの間ではその基準は似通ってくるでしょうし、遠く離れるに従って、基準が異なってくる可能性は高くなってきます。
例えば、住んでいる地域や国が違えば同一生活圏に住んでいる人たちに比べて、基準が違ってくる可能性が高まるでしょうし、生まれた時代が違えば、同様に基準が異なってくる可能性が高くなります。
それはそれで仕方が無いことですが、同一生活圏の中に住む人の中に突然、倫理基準の異なる人が入り込んできたら、その人は集団の中で「異物」として扱われ、トラブルメーカーになってしまう可能性もあります。
日本には
郷に入っては郷に従え
という諺もあります。
その土地やその環境に入ったならば、そこでの習慣や、やり方に従うのが賢い生き方であるという意味の教えです。
似たような表現には海外にもいろいろとあるようです。
もし、罪悪感を無くしてしまえば、集団の中で好き勝手に振る舞い、罪を犯してしまう可能性が極端に高まります。
「自分は罪だとは思っていなかった。だから罪ではない」
などという言い訳は通用しません。無知はそれそのものが罪であると自覚しましょう。
もちろん、自分に責任の無いこと、あるいは社会的な規範でもなんでもなく、単に自分で勝手に決めた無意味なルールに縛られて罪悪感を感じているのなら、それは見直した方が良いと思います。
しかし、「罪悪感」そのものを無くしてしまうということは「無法地帯」に自分の身を置くということでもあります。自分が法の外にいるということは、そこに住む他の人も法の外にいる可能性があるということ。自分だけが自由になり、それでいて自分だけが無法状態の危険性から守られた存在であるなどということはあり得ないのです。
反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害の人たちは、そもそも罪悪感を抱かなかったり、罪悪感を抱くということが非常に稀です。
不要な罪悪感に悩んでいる人が、そのような人たちを見た時に、あたかも自由であるかのように見えるという錯覚で羨望を感じることがあるかもしれませんが、彼ら・彼女らは社会的にトラブルメーカーになる可能性も高く、好き勝手にやることで社会から孤立することのリスクについては理解しておくべきです。
アドラー心理学で言う共同体感覚は、自己の利益のみを追求するのではなく、他者に貢献することで幸せを得るために必要な感覚です。
我々は一人で生きているわけではありません。
我々は自己を確立しつつも、社会の中で自分の役割をどのように果たしていくかを感じることで幸福感を感じます。
それが実現されるには、高い倫理観が必要であり、そのためには罪悪感を感じる心は無くしてはいけないのではないかと思います。
罪悪感を感じる心は、良心と言い換えることもできるでしょう。
良心を無くした人間は何者になるのか?
ソクラテスは、
「善く生きる」とは、「アレテー」を身につけて生きることである
と言っています。アレテーというのは、「卓越性」、「有能性」と訳されるギリシア語で、それが持つ性能の良さというような意味です。
例えば「ナイフのアレテー」は切れ味の良さであり、「馬のアレテー」ば速く走れることとなります。
では、人間のアレテーとは何か?
ソクラテスは
「魂の卓越性」(魂が優れていること)
が人間のアレテーであると言っています。
これは、たとえ自分自身に不利益になることがわかっていても、道徳的なふるまいをすることができる性質のことです。
人間のアレテーを身につけることなく、共同体感覚も感じられない人間は、一体何になるのでしょう?
それは、単に良い人間になれなかった人間なのでしょうか?
それとも人間以外の何者かなのでしょうか?