質問されたので答えてみた

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なんか呼ばれた気がしたので…(笑)。

まず
「スピや陰謀論にハマった人ってそれらを使って自分が正しいことを証明しようとしている??」

という部分に関してです。

意識してか無意識にかは人それぞれだと思いますが、基本的にはこの質問のとおりだと思って良いでしょう。

心理学用語に
認知的不協和
と呼ばれるものがあります。

これは、自分の認知と矛盾する認知を抱えたときに不快感を感じるという減少を表すもので、その解消のために、人は自分の行動や認識されている状況に対する解釈の方を変えたりします。

そしてその不協和が大きいほど、解消しようとする心の動きも強くなります。

例えば、「自分はすごく優秀な人間だ」という自身に対する認識を持っている人が、実世界の中では周りに評価されなかったり、思っているほど結果を出せていなかった場合、その人はどうするでしょうか?

真っ当に育った人間であれば、「優秀である」という自分の認識を証明するために、自身のスキルや知識を高めようという努力をします。そして、それが最も現実的かつ確実な方法です。

ただし、この方法は当然、労力も時間もかかるというのが普通です。
自分の認識と現実とのギャップが大きければ大きいほど、解消に必要なコストも大きくなります。

このコストを支払う覚悟が無い人は、自分自身を変えてギャップを変えるのではなく、認識の方を変えるようになります。
ある人は「自分自身に対する認識」を変え、

思ったほどは優秀じゃなかった…

という認識になり、子供の頃の万能感が無くなっていき「人並み」の自分に甘んじることになります。

ところが、そうではない一部の人達は、優秀な自分という認識は間違っていないし、(自分ではしているつもりなのかもしれませんがw)努力もしたくない。間違っているのは周りの方だという認識に動き出します。

ある人は、頑張らなくてもいい、人に迷惑かけてもいいという考えが正しいと思い始めますし、ある人は、ノートに書く「だけ」で夢が叶うという考えに執着し始めます。
また、直接的に自分が関わらないような陰謀論にハマる人の頭の中にあるのは「他の人が知らない事実を知っている凄い自分」です。

人間って、不思議なこととか謎とかが好きですからね。
僕も不思議な話は結構好きな方です。
人間は新しいことを学んだり、成長したりする欲求を元々、持っているものなんです。
(そして、それが人間の進化や文化の発展につながっています)

ちなみに今まで書いたブログの中でも

僕のブログを良く見てくださっている方が、このような記事を書いていました。 大学に行くということを考えているそうです。 僕は、何歳にな...
私は、読書が好きなのですが、本を読むことに意味を見出さないという人がいます。 そういう人の理屈としては、体験こそが重要であって、本を読...

などでは、学ぶことの大切さや意味について書いています。

科学少年とかって多いですよね。
これも、世の中の不思議なことを知りたいという知的好奇心の現れでしょうし、科学よりは魔法やファンタジー的なことが好きで興味のある人は、小説や漫画・映画などの表現活動を行うようになったりします。成長に従って、現実と空想の区別がつくようになるからです。

ところが、科学的なことには興味があるが、理解するための努力はしたくない人は安易にニセ科学・疑似科学にハマっていき「世の科学者が気づかない事実に気づいた!」とか、創作の才能も努力も乏しく、現実を見ることができないひとたちがエセスピ、偽科学を自分の主張を証明するために使いだします。
そしてその殆どが、自身に対する承認欲求を満たそうとするためです

さて、ここまで書いてきたように、スピや陰謀論にハマる人の多くは、自分の主張を証明するためにそれを利用しているということが言えるわけですが、陰謀論についてもうちょっと詳しく書いてみましょう。

僕は「陰謀論はバカの証拠」くらいに思っているのですが、陰謀論の特徴というのは、循環論法によって説明されていると思っていただいて良いと思います。

循環論法というのは簡単に言えば、

ある物事の証明のために、それが事実であるということを仮定した上で議論を行う論法のことです。

つまり、Aが事実であるということを前提の上で、Bを語り、Bが事実であるという証明のためにAが成り立っているからというような話のしかたです。

簡単な例を出すと、

  1. T大統領は多くの問題を解決できる素晴らしい人間だ
  2. なぜなら彼は多くの人に支持されて選ばれた大統領だからだ
  3. 支持者たちは彼のことを多くの問題解決が解決できる人間だと思っている

といったようなことです。1-3の話の中には、実はT大統領が問題解決できるという根拠は全く出てきません。
単純な例であればすぐに見抜くことはできるでしょうが、より複雑になってくると、なかなかすぐに見抜くことは難しくなってきます。
参考資料などが自分の書いた論文だけで、客観的事実・根拠にいつまでもたどり着かないようなものは要注意です。

以前、何度か僕のブログの中で紹介したMさんの論説をちょっと紹介してみましょう。

私は「偶然」というものはなく、起こるできごとのすべてが「必然」だと思っています。ですから、事故が起こるのも「必然」、残虐な殺され方をするのも「必然」、阪神大震災も「必然」です。すべてが因果の法則にしたがって起こっているということです。因果の法則についてはシャーリーマクレーンも本の中で述べていることですし、「シルバー・バーチ」の本にも記述されています。

しかし私は、本に書かれてあるからそう思うのではありません。
そう考えることにより、すべてのつじつまが合うからそう思うのです。

これは「すべてのつじつまが合う」などと、全く具体的な説明にもなっていないので、循環論法にもなっていないのですが、近いものがあります。

twitterでこのような呟きが流れてきました。 へえー凄いね。消えていいよ pic.twitter.com/2DcXaYArcI ...
HSPと聞くと、僕は Hot Soup Processor というプログラミング言語のことが頭に浮かんでしまうのですが、最近では、 Hig...

念の為付け加えておくと、循環論法は「背理法」という証明方法とは異なります。
背理法は、何か(P)を直接証明するのが難しい場合に、(P)が「成り立たない」と仮定して、その場合に矛盾が生じる場合に初めの仮定が過ちだということから(P)が成り立つということを証明する方法です。
一方、循環論法では証明しようとする事柄が成り立つ場合でも成り立たない場合でも矛盾は生じない。つまり、何の証明にもなっていないということです。

結論を言えば、陰謀論やエセスピにハマる人たちというのは、よく言えば素直で純粋な人。悪く言えば、自己評価は低くないけど現実の世界でそれに見合った結果を出すための努力に欠ける人と言えるように思います。

何か新しい情報に触れた時、それが正しいかどうか、自分にとって有益かどうかについては、

「あ、これは良いもののような気がする」

とか

「そういう考え方にすると気持ちが楽になる」

というように感覚的なものをきっかけにするのは全く問題無いと思いますが、最終的な判断は論理的に矛盾せず一貫性を持っているかどうかと、客観的な立場から見たときにはどのような判断になるかということから決めた方が良いと思います。

一貫性を持っているかどうかについては、説明するまでもないと思いますが、そのばその場で自分にとって都合の良いことを言っているような考え方はどこかで歪みを生みますし、それは最初に紹介したような「認知的不協和」を生み出し、最終的には自分の中で不快感を生み出すし、判断を誤らせることに繋がるからです。

また客観的な立場から見たときにどうなのか?ということについては、人は物事を認識する時に、世界そのもの(事実)をそのまま受け入れるわけではなく、何らかの変換をした上で自分に取り込むからです。自分にとって影響が大きい(都合が良いとか悪いとか)ほど、フィルターによる変換も大きくなりますので、視点を変えて事実を事実のまま受け入れるとどうかということを意識することが大切だと思います。

WordPress中心に読んでくださっている方は、amebloの方もどうぞ…。 (こちらには書いていないスピやカウンセラーの問題点について...

さて、他の人との関係性を考える際は、3つの視点で物事を見る習慣をつけるのが得策です。

  1. 自分の立場で物事をどう見るか?
  2. 相手は同じ事象をどう見ているか?
  3. 第三者的な視点からはどう見えているか?

例えば、誰か苦手な人がいるとします。
その人はいつも自分に対して、厳しいことを言ってくるので、嫌だなぁ…嫌いだなぁ。と思っているとしましょう。

自分の立場では、感じているままに「この人にこんな言い方をされて嫌な気持ちを感じている」と思っています。

これを相手の立場に立って、相手の視点から考えてみると
「この人(→自分です)は、いつもミスばかりして叱られているから、ちょっと厳し目に言って、早く仕事を憶えてもらった方が、大きなミスをして会社をクビになるよりも良いよね」と思っているのかもしれませんし、その人にとっては別に厳しいことを言っているつもりもないのかもしれません。

また客観的な立場から見ると、普通のやり取りに見えているのかもしれませんし、しっかりとコミュニケーションが取れているようにみえているかもしれません。

立場を変えてみることによって、見えてくる風景も変わってきますので、視点を移しつつ様々な観点から事象を見てみることによって、問題点を発見しやすくなったり、理不尽に感じていることにも理由があるということが見えてくることもあるでしょう。

実は人によって、どの立場で物事を見やすいかというのは変わってきます。
(だからこそ、意識しながら日々の習慣にしていくというのが大切です)

例えば、「自分が」が強い人は、他の人のことを考えないマイペースな人、わがままな人、気が利かない人と見られることが多くなるでしょうし、「相手が」というのが強い人は、相手に気を遣い過ぎて、気疲れしてしまったり、自分自身の感情を押し殺して相手の要求を飲んでしまうということになりがちです。

また、第三者的な視点が強い人は、冷静で客観的な判断ができる一方で、当事者意識に欠け、問題について他人事のように捉えてしまうような傾向があります。

何が良くて何が悪いということではなく、バランス良く物事を捉えることが大切です。

それが普段からできていないと、思考や感情が極端から極端に走り、感情を抑えていた人が爆発して人に迷惑をかけるようになったり、極左だった人が極右活動に走り出したりします。
DVを行う人やカルトの教祖も、そのように感情を揺さぶり、極端から極端に走らせるようなことをしますよね。感情がブレやすい人、極端なことを言う人のことは眉唾で聞いておいたほうが得策です。

ちなみにこの中でもエセスピに特にハマりやすい人には、「相手の立場」を慮る傾向が強い人が多いのではないかという気がしていますが、そういう人に必要なのは感情の解放ではなく、アサーティブ・コミュニケーションだと考えています。
詳しくはこちらにも書いていますので、参照していただければと思います。

重要保存記事と書いてあったので、どんなことが書いてあるかと読んでみた。 【魚拓】★【重要保存記事】心屋が今までの心理学と一番違うところ...

人に対して自分の意見を述べたり、批判したりすることを相手に対する攻撃と受け取ってしまう人が意外と多いというのは、日本の教育(と文化)の問題だと考えていますが、正しいコミュニケーションをとって、皆が幸せになるというのは重要なことだと考えます。
そのために一番重要なことは

相手に対する敬意、リスペクト

を忘れないということではないでしょうか。
相手のの関係を上下関係や勝ち負けでしか見られないとそのような相手に対する敬意を忘れがちですし、ましてやネットの中などでは特に相手を一人の人間ではなくモブキャラ、ゲームの中でのNPCのようにしか見られなくなってきます。
自分自身がそんな態度であれば、相手と適切なコミュニケーションを取るということは望めないのではないでしょうか。

※こちらも参考にどうぞ

料理の話ではありません(笑)。 心屋くんのブログやなんかに書いてあること、書いている個別の素材は、それぞれ納得できるものだし良いことも書い...

お釈迦様は「中道」ということを教えています。
ひとつの極端に偏らず、バランスをとって物事を見、生活することが大切だと思います。

そして、何かを利用して自分を正当化するということ。
まずは、上に書いたように極端に偏らないということを意識すること。
そして、何よりも

「他の人に迷惑をかけないように気をつける」

ということです。
ただ、無人島で一人暮らしをしているのでもない限り、他の人に影響を与えないように行きていくというのは困難ですから、そこは意識しつつ、自己の主義主張を証明する何かを周りに求めていくというのは普通にあるのではないでしょうか。

自分の正当性を証明するものに客観性をもたせるのは当然のことで、よく言われる「エコーチェンバー現象」のように、閉鎖空間の中で自分に都合の良い意見だけを取り入れるようになり、さらに似たような主義主張の人たちが集まって自己の考えが強化されているのではないかということには気をつける必要があります。
上に書いたように「客観的意見なのか?」ということについてはよく吟味し、否定的意見を排除しないようにする姿勢が大切です。


今回質問されて答えたことの中のポイントは2つ

  • 自己認識と現実とのギャップを埋めるために、世の中に対する認識の方を変える人が存在する
     → そういう人は、「周りの人の知らない凄い秘密を自分は知っている」と思いがちだが、実はすごい秘密が事実である根拠は無い
  • 世の中を見るときは、自分の立場、相手の立場、客観的立場から見ることが重要。その習慣をつけると世の中の認識に偏りが生じにくい

です。

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