何でも思い通りになっていると思っているバカ

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twitterでこのような呟きが流れてきました。

一言で言って「不快」。

元記事はこちららしい

界隈に棲む輩と、その信者はどうしてこんなにバカなんだろう?

この考え方の根本には

「世界は自分が作っている」

というバカバカしい思い込みがあるのだろう。
目の前で起きていることは自分で決めたこと、選んだことと思っているから、ある教祖は

キミの娘さん
叩かれるために生まれてきたのよ

と言い放ち、

この、さとうみつろうとかいうお馬鹿さんは、

風邪をひいた時に、聞いてみて下さい。

「私はどうして風邪を引きたかったんだろう?」

前提を【私がこの現実を選んだ】に設定する。

すると必ず、理由が見つかります。

などということを平気で言う。

同じことを犯罪に巻き込まれた人たち、難病で苦しんでいる人たちにも言って、ぶん殴られてくれば良いのにと思う。

実はもう四半世紀程も前、ネット上で、ある人と同じようなやり取りをしたことがある。
当時は阪神淡路大震災やオウム真理教事件で、世の中がザワザワしていた状態。僕はまだ大学院生。

議論のきっかけは、相手(以後Mさん)の弟さんが交通事故を起こしてしまい、そのことで親御さんが
「保険に入っていて良かった」
と言ったことに対し、Mさんが
「保険になんか入っているから事故を起こしたんじゃないの」
と言い、それで親御さんが怒ってしまったというもの。

この考え方は、今でもスピ界隈ではよく言われるもの
良いことだけ考えていれば良いことを引き寄せ、悪いこと(この場合、事故を起こすことを想定して保険に加入すること)を考えれば悪いことが現実化するということ。

まあ、世の中そんなわけないので、それについて僕が「親御さんが怒るのは当たり前」という反応をしたことが気に入らなかったらしい。

ちょっと長くなるが、そのやり取りを紹介する。
(名前等は編集してあります)
以下、僕のことはQ、相手をMとします

M:
 ウチの弟も以前、事故を起こしてしまったことがあるんです。それほど大事には至らなかったようなのですが、そのときに親が「保険に入っていたから助かった」と言ったので、ちょっとした論争になりました。

 私が、「保険に入るからそういうことを引き起こすんじゃないの?」と言ったので、親が怒ってしまったんです。ここの方なら、私の言いたかったことがわかっていただけると思いますが・・・。だから私は保険なん嫌いです。

Q:

> 私が、「保険に入るからそういうことを引き起こすんじゃないの?」と言ったので、親が怒ってしまったんです。ここの方なら、私の言いたかったことがわかっていただけると思いますが・・・。だから私は保険なん嫌いです。

 うーん(-_-;)。Mさんは、クルマの運転はしないのですか?Mさんの言いたい事はわからなくはありませんが、親御さんが怒るのは無理がないような気もします。逆にMさんが事故を起こして、弟さんに、Mさんがおっしゃったような言葉を発せられたらどんな気持ちでしょう?そもそも、事故は起こそうと思って起こすものではないんですから、むしろ、保険にも入らず運転している方が無責任な態度のように思えるのですが?
 「保険に入っていたから助かった」という言葉が、「お金でカタがつきそうだから良かった」という意味ならちょっとなぁ、とも思いますが、そればかりでもないでしょう。実際、自分が事故に遭って、加害者の方が保険にも入っていず、途方にくれていたとしたら、被害者の方も、何となく後味が悪いのではないかな。それに、もしも、Mさんが保険に加入せず、事故を起こしてしまったら、「保険に入っておけばよかった」という言葉が出ると思いますよ。それだけ、相手に対する償いの幅は広がる訳ですから。
 それに、「保険に入るからそういうことを引き起こすんじゃないの?」というのは、極端な話、「火災保険に入るから火事を引き起こす」ということもいえるわけですからね。保険自体が悪い訳ではなく、「それを、どう使うか」が問題なのでは?

M:

>そもそも、事故は起こそうと思って起こすものではないんですから、むしろ、保険にも入らず運転している方が無責任な態度のように思えるのですが?

 以前、自由意志についてのわかりやすい例をPさんが書いてくださいましたが、実は私は最近、私たちは何に対しても自由意志を持っているのではないかという考えに変わりました。

 つまり、私たちが体験するすべての出来事は、私たち自身が選んでいるという考えです。そうなると、事故が起こった場合、それを引き起こしたのは自分自身ということになります。

 保険に入っているということは、「事故が起こっても大丈夫」な状態を自ら作り出していることになりませんか?

>Mさんが保険に加入せず、事故を起こしてしまったら、「保険に入っておけばよかった」という言葉が出ると思いますよ。

 それはそうかもしれません。でも、あくまで「かも」(推定)ですよ。

 以前、「不幸の手紙」の件で助言してくださったときのことを思い出してください。「不幸の手紙を処分するパワー」と、「事故を起こさないようにするパワー」は親戚だと思いますよ。

Q:

> 保険に入っているということは、「事故が起こっても大丈夫」な状態を自ら作り出していることになりませんか?

 おそらく、こういう反応が出るだろうと予想していました。それは、そのとおりです。だって、それが保険の意味なんですから。しかし、事故が起こっても大丈夫という状態を作り出すと、事故が起こるという短絡的発想には納得がいきません。保険というのは、万が一の時に、周りにかかる負担を少しでも減らすという考えではいるのが普通だと思います(少なくとも、私はそう思って入っています。ビンボーなのに、無制限にね)。事故に遭った事のある立場から言っても、相手が保険にも入っていないと本当に困るんですよ。事故を起こさなければ良いのですが、前にも書いたように、「事故は起こそうと思って起こすものではない」ですから。保険に入らなければ、気をつけて安全運転をするということを、Mさんは言いたいのかもしれませんが、基本的に安全運転と保険は関係ありません。
 そして、ここはMさんの考えとは多少違いますが、私は、本当に運命の束縛から逃れる事が出来たような(仏教で言えば、涅槃に入ったとでも言えばいいのかな)人でもなければ、自分の努力だけでは、どうしようもない出来事ってあると思っています。
 Mさんの理屈でいけば、「癌保険に入れば、癌になる」、「将来のために貯金を0にしておけば、お金に困る事はない」、「阪神大震災でなくなった人は、それを自分の意志で選んだ」ということになりますよ。極端な話、クルマを運転する時点から、事故を起こす可能性は誰にでもあるのです。絶対に事故を起こしたくなければ、クルマの運転をやめればいい。「保険に入るから事故を起こす」「保険に入っていないから事故を起こさない」なんていう考えで運転する人の方が、私は恐いです。

>「不幸の手紙を処分するパワー」と、「事故を起こさないようにするパワー」は親戚だと思いますよ。

 これは、何が言いたいのかちょっと掴めないので、もう少し詳しく説明して下さい。ただ、不幸の手紙が来る事が事故みたいなものだという意味なら、不幸の手紙が来た後に「どう対処するか」というのと、事故が起こらないように「どう予防するか」は、
全く別物だと思いますよ。まして、予防しきれずに事故が起きてしまった時のために策を練っておくのは、まるで関係ないように思えます。

M:

 ごめんなさい。Qさんのレスを読んで笑ってしまいました。くっくっくと笑いが込み上げて来たんです。だっておかしいじゃありませんか。

>私は、本当に運命の束縛から逃れる事が出来たような(仏教で言えば、涅槃に入ったとでも言えばいいのかな)人でもなければ、自分の努力だけでは、どうしようもない出来事ってあると思っています。

 笑ってしまったのは上記の部分です。ごめんなさい。今読み返しても笑っちゃう。どうして笑ってしまったかと言うと、Qさんがまだ物質的な部分を捨て切れずにいるからです。捨ててしまった方が楽ですよ。(^^)

>Mさんの理屈でいけば、「癌保険に入れば、癌になる」、「将来のために貯金を0にしておけば、お金に困る事はない」、「阪神大震災でなくなった人は、それを自分の意志で選んだ」ということになりますよ。

 実はそのとおりなんですよ、Qさん。物事が起こるには必ず理由があります。理由なくして物事は起こりません。たとえそれが悲惨な出来事であったとしても、それが起こるには何か理由があるのです。

 Qさんは、自分が潜在的に望んでいるとは知らずに起こった出来事に対して、何か戸惑いを感じたことはありますか? また、例えば悲劇が起こったとして、後になってから、自分がそれを潜在的に望んでいたと気づいたことはありますか?

>ただ、不幸の手紙が来る事が事故みたいなものだという意味なら、不幸の手紙が来た後に「どう対処するか」というのと、事故が起こらないように「どう予防するか」は全く別物だと思いますよ。

 そうではなくてですね、跳ね返すパワーそのものについて言いたかったんです。

 残念ですが、今の段階ではこれ以上この件について論議してもお互い平行線をたどるだけでしょう。なぜなら、前提条件が違うからです。前提条件が同じでないと、論議はできないと思いません? だから、これ以上Qさんを困らせるのはやめにしますね。

Q:
 うーむ、前提条件が違うというのはまず間違いが無いところなのですが(そう思っていたので、誰が読んでも大丈夫なように書いたつもりだったのだが)・・・。ちゃんと、伝わっていないようなので、そこだけ説明しちゃいますね。

>Qさんがまだ物質的な部分を捨て切れずにいるからです。捨ててしまった方が楽ですよ。(^^)

 このHPが始まった当初からのLOGを読み直していただければ解るかと思いますが、私は物資界を軽んじて「いません」。精神界が物質界に比べて上位にあるとも思って「いません」。両者はある事柄の表裏であり、この2つは分かつ事の出来ないも
のだと思っています。よって、少なくとも今の私は、これを捨てる気など毛頭有りません。

> 実はそのとおりなんですよ、Qさん。物事が起こるには必ず理由があります。理由なくして物事は起こりません。たとえそれが悲惨な出来事であったとしても、それが起こるには何か理由があるのです。

 これについては、何ともいえませんが、私が問題にしているのは、その理由を自ら作り出したか、それとも、もっと大きな歯車に組み込まれているのかという事です。
Mさんは、「オウムに殺された龍彦ちゃんは、自分が悪い」、「地震で死んだ赤ん坊は、自ら原因を作り出した」と言っているんですよ。その辺の自覚は有りますか?
有るなら、これ以上言う事は有りません。
・・・と思ったけど、書いているうちに一つ思いついたので、考えてみて下さい。申し訳ないですが、Mさんを例に取らせていただきます。
「Mさんには、すごく愛している恋人がいて、その恋人が死んでしまいました。それは、誰のせい?Mさんがそれで悲しむのなら、Mさんが原因を作ったのでしょうか?その恋人が死んだのは、彼自身が原因を作ったのでしょうか?」


ちょっとだけ補足。

 「事故を起こすかもしれない」という「覚悟」の気持ち(保険に入る)と、「事故を起こしたらどうしよう」という「不安」の気持ちは違うと思います。マーフィーの法則ではありませんが、保険に入っていないような時に限って事故を起こしてしまうような気がします。
 それから、Mさんへ。「捨ててしまった方が楽」と言っていますが、「献血をする勇気が無い」Mさんは、捨てているのですか(^_^) ?たかが、自分の肉体的な事に対してすら、その様な恐怖感を持っているMさんに、その様な事が言えるのでしょうか?というか、本当に捨ててしまった方が楽と確信を持って言い切れますか?Mさんも、まだ捨てきってはいないでしょう?

 何だか、私がここで一貫して言って来た事が、全然伝わっていなくて寂しいな。物事は、一つの側面からだけ見るのは危険っていうことがね。まあ、これも前に言った事ですけど、こういう事って、人に言われてどうなるものでもないから、しかたないとは思いますけどね。

M:
 どうやらまだ続きそうな気配ですね。

>私は物資界を軽んじて「いません」。精神界が物質界に比べて上位にあるとも思って「いません」。両者はある事柄の表裏であり、この2つは分かつ事の出来ないも
>のだと思っています。よって、少なくとも今の私は、これを捨てる気など毛頭有りません。

 Qさんを完全な精神界にご案内することを、私の新たな目標とした方が良さそうですね。

> これについては、何ともいえませんが、私が問題にしているのは、その理由を自ら作り出したか、それとも、もっと大きな歯車に組み込まれているのかという事です。

 ちょっと説明不足のまま逃げてしまったことを認めます。答えはその両方です。
 カルマ解消のために起こる出来事もあるからです。

>Mさんは、「オウムに殺された龍彦ちゃんは、自分が悪い」、「地震で死んだ赤ん坊は、自ら原因を作り出した」と言っているんですよ。

 極端な言い方をすれば、そうです。自分でその原因を作り出したのだと思います。
 そうならざるを得なかったカルマが、彼らにはあったのではないでしょうか。または、カルマとは別に、そういう形で「学びの場」を提供されることもあります。

>「Mさんには、すごく愛している恋人がいて、その恋人が死んでしまいました。それは、誰のせい?Mさんがそれで悲しむのなら、Mさんが原因を作ったのでしょうか?その恋人が死んだのは、彼自身が原因を作ったのでしょうか?」

 これを語り始めるとまた別の話になってしまいます。Qさんが知りたい内容についてのみ論じると、「二人にとってその方が良かったからそうなったのだ」
 ということになります。では、その原因を作ったのは誰か。「二人」だと思います。「二人」がそのことに「合意」したのだと思います。つまり、私が彼の「死」を望み、彼が自分の「死」を望んだのだと思います。

 以前、私のカルマについてここに書いたことがありますが、すごく好きだった人との別れが訪れたとき、実はちょっとした安堵感みたいなものがありました。それでも、別れたという悲しみをずっとひきずっていました。

 でも、ようやくわかったのです。あれほどまでに苦しかった失恋も、実は私が望んだことであるということが。まったく望まないことが起こるわけがないではありませんか。

 ものすごく悲しいことが起こったとき、人はそれを何かのせいにしたくなります。
 しかし、それを作り出しているのは自分自身なのです。

 そもそも私は、「死」そのものが「別れ」につながるとは思っていません。もしその恋人がソウルメイトなら、また生まれ変わって一緒になれるからです。「死」というのは、「肉体を捨てる」という意味でしかありません。

 マフィーの法則などあり得えないと私は思っています。ジョセフ・マフィーの法則なら素敵だけど・・・。

>本当に捨ててしまった方が楽と確信を持って言い切れますか?Mさんも、まだ捨てきってはいないでしょう?

 そうですね。まだ捨て切っていないことは認めます。でも、捨て切る方向に向かっているのは事実です。では、捨て切れば献血ができるのか? それはそうでしょうね。何もかも自分でコントロールできる立場にいるのですから、献血など何のことはないはずです。

>物事は、一つの側面からだけ見るのは危険っていうことがね。

 一つの側面って、精神界だけのことでしょうか? もしそうなら、私はそれだけで十分だと思っているのですが・・・。

Q:

> Qさんを完全な精神界にご案内することを、私の新たな目標とした方が良さそうですね。

 まず第一に、精神界が物質界の上位に位置するなどという考え方自体、私はナンセンスだと思っています。それは、男が女よりエライとか、女が男よりエライとか言うのと同じ、低次元の論点だと思っていますから。物質界と、精神界は互いに補いあうものであり、一方が他方の束縛になるという風には思っていません。それぞれが役割を持ち、どちらかに従属しているものではないと思います。精神界が、物質界より精妙に出来ているのは認めますが、それは、スクーターとトレーラーの違いみたいなものだと理解しています。

> そうならざるを得なかったカルマが、彼らにはあったのではないでしょうか。

 これも、予測し得た答えでした。でも、今は現世において自由意志で行った行為が、どういう結果を生んだかっていう話をしていた訳でしょう?なんだか、将棋をしている時にいきなりチェスの駒を置くような、論理の展開ですね。
 それとも、彼らにも自由意志が働く余地があったと思っているのでしょうか?

>では、その原因を作ったのは誰か。「二人」だと思います。「二人」がそのことに「合意」したのだと思います。

 これは、片方だけしか死を望んでいなければ、それは起きないという事でしょうか?

>まったく望まないことが起こるわけがないではありませんか。

 だから、ここが問題なんだよなぁ。私は、まったく望まない事が起こりうるからこそ成長できると思っているし、人生面白く感じているのですがね。人生が自由意志だけで進むのなら、Mさんが、アガスティアの葉や、ジョーティシュに興味を持つっていうのは、私には、ちょっと理解しかねる。

> しかし、それを作り出しているのは自分自身なのです。

 それじゃあ、私は自分の知人が死ぬのを見たくないけど、それが起こるのは「私のせい」なわけですか。

> マフィーの法則などあり得えないと私は思っています。

 一つ、情報を与えておきましょう。Mさんには、また物質的だとか言われてしますかもしれませんが、京都大学工学部の逢沢明という先生が、「逆正弦法則」というものを研究しています。これは、まさにマーフィーの法則を表しているもので、数学的研究がなされています。

> 一つの側面って、精神界だけのことでしょうか? もしそうなら、私はそれだけで十分だと思っているのですが・・・。

 生まれてたかだか数十年で、何だか悟りを得たような発言というのは、ちょっと、思い上がりではないでしょうか?(Mさんは、今までの転生で学んだというかもしれませんが)
 ゲーデルの「不完全性定理」って知ってます?20世紀最大の発見といわれているものの一つですが、要約すると、「数学が無矛盾である限り、数学は己の無矛盾性を自分では証明できない」ということです。ここでの議論に適用すると、「精神界が完全である限り、その中にいる人は完全性を知る事は出来ない」っていう感じかな。
 よくある例を出してみましょうか。

     「『全てのクレタ人はうそつきである』というクレタ人」。

 さて、クレタ人はうそつきでしょうか?うそつきではないでしょうか?これは、クレタ人以外の人に判断を仰ぐしかありません。これと同じように、ある一つの世界に閉じこもると、自分達が正しいのか、間違っているのか判断がつきません。オウムの人達を見ればわかるでしょう?

 話を原点に戻しましょう。実は、Mさんがおっしゃるような、「物質的」な方法を用いると、話の結論は、簡単に出たのです。本当は、Mさん自身に気付いて欲しかったのですが、とりあえず、こちらで書いてしまいます。例の手紙がMさんに来た時に、手紙に従うと、どのように手紙が広がっていくか計算したのと全く同じことです。

 保険というのは言うまでもなく、多数の人間が、少数の人間の損害を補償するというシステムになっています。ですから、地震など、広範囲にわたる自然災害や、戦争などには、基本的に保険は掛けられません。さて、Mさんが言うように、保険を掛けると事故が起こるという事態が次々と起こったらどうなるでしょう?保険というシステムは、あっという間に破綻をきたしてしまいます。ところが、現在でも、保険は有効に働いていますね。この客観的事実一つ取ってみても、保険が事故を呼ぶなどという事は無い事がわかります。保険を掛けても、圧倒的多数の人間には、事故は起こらないのです。

 直感というのは、時として非常に的確な答を出します(野生動物なんかは、これをうまく使っているのでしょうね)。しかし、厄介な事に人間には余計な知識から来る「思い込み」というものがあります。そして、この2つは(特に当事者にとっては)非常に区別がつきにくいものです。
 ところが、幸い、人間は「論理的に考える」という事も出来ます。たくさんの武器を持っているのです。たった一つの武器に頼って、自分自身の選択の幅を狭めないで欲しいと思います。

 実は、私は、「精神的」と「物質的」、「善」と「悪」、「白」と「黒」といった二元論的な考え方には、いいかげんうんざりしています。私は、世界を「精神的」、「物質的」などという部分で見るのではなく、世界を「世界そのもの」として、認識する。そういった術を模索しているのです。

     全体は、部分の寄せ集めではありません。
     人間は、頭と胴体と手足が集まったものではありません。
     水は、酸素と水素が集まったものではありません。

 世界は水に例える事が出来ると思います。水(世界)から、酸素(物質界)を取り去ってしまったら、それはもはや水ではありません。

 まぁ、そういう事です。私が言いたいのは(^_^)。

 我々の人生っていうのは、学校みたいなもののような気がします。学校というからには、カリキュラムが有る訳ですよね。で、大切なのは、そのカリキュラムの中で、一体何を学のかという事のような気がします。同じカリキュラムを与えられても、それをどう消化するかっていうのは、自分自身の問題ですよね。この教科が嫌いだからっていって、カリキュラムを変えるのが自由意志ではないような気がします。

 また、人生を山登りに例えると(工夫が無いですね)、人によって歩くコースが違う訳ですが、同じコースを辿ったとしても、晴れの日と雨の日では、当然その苦労は違いますし、フォーマルな革靴を履いて臨むのと、登山靴を履いて登るのとではやはり違うと思います。私が以前発言した「環境は意識の投影である」っていうのは、天気を雨から晴れにして登ったり、装備をきちんとして、より安全に、また楽に登山に臨むっていう事です。道が険しいからといって、与えられたコースを変えるのは、ちょっとズルのような気がします(^_^;)。

って事を、考えています。ですから、人生の中で起こる出来事が(一般的に言う)個人の自由意志だけで決定している訳では無いのではないかなーという気がします

 まあ、このあともやり取りは延々と続くわけですが、保険の例でもわかるように、自分の身に降り掛かっていること、周りで起きていることは自分で選んだことばかりではないわけですよ(当たり前)。

その他にも、さとうみつろうとかいうお馬鹿さんの記事には突っ込みどころが満載で、

量子力学で言う所の、「観測者の視点」を取り戻すとはこういうことかもしれません。

対象物(いわゆる『現実』)は、必ず観測者の影響を受けます(解釈通りに観測されます)。

簡単に言うと、

あなたがが「そう」観たから、あなたにだけ「そう」観えているのが【現実】です。

とか言ってるところも

ちーがーいーまーすー

出ましたよ。エセスピが大好きな量子力学。
そして間違ってる(笑)。

きちんとした物理屋さんは、バカバカし過ぎて相手にしてくれないだろうから、優しい僕が頭の悪いあなたにもわかるように教えてあげます。
耳垢の詰まった耳をかっぽじって良く聞いておきなさい。


例えば、あなたが新型コロナに感染していないかどうか調べるために体温を計るとするじゃないですか。
その辺の薬局で売ってる体温計を使うのか、赤外線型の体温計使うのかは知らんけど、普通は脇の下で計ろうが、口に咥えようが、体温計自体の温度が体温に与える影響なんか無視できるじゃないですか。
ところが、その体温計の大きさが電柱くらいの大きさで、体温を計るのに20分くらい抱えていなきゃならなくて、その電柱みたいな体温計自体の温度が氷みたいに冷たかったり、50度くらいの温度だったらどーよ?!計ってる間に、自分の体が冷たくなってきたり熱くなってきたりするでしょーが。
これが、量子力学で言ってる観測行為が対象に影響を与えるってことだよ。

何が

解釈通りに観測されます(キリッ)

だ。ドヤ顔で間違ったこと言ってるんじゃないよ。 バーカ
恥かくだけだから、「量子力学では」とかもう言わない方が良いよ。

あとね、一番最初に書いてる

数多くある映画の中から、どうしてこの映画を選んだのか・・・。

ドラッグのせいでその部分の記憶が無い。

ただ1つ間違いないのは、私が観たくてこの映画を選んだという事。

というところだって、どうして選んだのか記憶がないなら、誰かに無理やり連れてこられたのかもしれないし、間違って入ったのかもしれないじゃん。なんで自分で観たくてその映画を選んだのが間違いないんだ?言ってることおかしいと思わないのか?

まあ、こういう人は何を言っても変わらないんだろう。

でも、このブログをたまたま読んでいて、まだ取り返しがつくレベルの人に伝えるなら

全ての出来事が自分の思い通りになる世界は、夢か妄想の世界だけですからね。

自分の身に降り掛かったことに対して、そこから何を学び、今後の人生に対して、どのように教訓にしていくかを考えることは重要ですが、それが何故起こったのかを考えることにそれ程意味はないし、ましてや「なぜ自分がそれを選んだか」などということを考えるのは人生の無駄遣いとしか言いようが無いです。

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