荒野の誘惑とスピ教祖

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新約聖書の中に「荒野の誘惑(あらののゆうわく)」という有名なシーンがあります。
イエス・キリストが悪魔に誘惑を受け、それを退けるシーンです。

そのシーンで悪魔はイエスに対し、世界のすべての国々を見せて

石をパンに変えてみろ」とか「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう」とか、宮の頂に立たせて「ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とある
などと言います。

何となく、これらの誘惑が偽スピの教祖やエセカウンセラーの言うことと重なります。

権威と栄華という目に見える富を手に入れることにより、より大切なことから目を逸らせる誘惑。
また、御使いが助けてくれるから危険な行為をやってみろというのは、「何をやってもいい」「どうせ愛されているから」という言葉を彷彿とさせます。

もちろん、聖書が唯一正しい教えというわけではありませんし、それにかこつけて批判するという気もありません。

ただ、何百年もの期間、多くの人々に支持されてきた教えが我々に何を伝えたかったのかということは考えてみた方が良いと思いますし、先人の教えの中で取り入れられることはどういうことで、今、自分たちがしようとしていることがどういうことなのかを考えるための参考にはした方が良いでしょう。

イエスは何故、悪魔の誘惑に対し

人はパンだけで生きるものではない
と言ったのか?

主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ
と言ったのか?

主なるあなたの神を試みてはならない
と言ったのか?

神学的には、正しい解釈があるでしょうが、僕は目の前の問題を刹那的に解決しても、根本的な問題は解決しないと言っているように感じます。
もちろん、目の前に苦しみがあれば、それを取り除きたくなりますし(石をパンに変える)、この世の富を手に入れたいでしょうし(権威と栄華)、他の人に自分の力を誇示して自分を認めてもらいたくなるでしょう(下へ飛び降りろ)。
でも、その先にあるのは何でしょう?

マーティン・ロイドジョンズという20世紀最大の説教者と呼ばれる牧師がいます。
彼の言葉に以下のようなものがあります。

「聖書を開き、みことばを読み、その章全体を読み通す。それなのに、目の前のページに書いてあることとは全く異なった結論を引き出している場合さえある。このような危険に陥るのは、私たちに自分の意見をもって聖書に近づく傾向があるからである。自分の意見をもって聖書に近づくために、読むことがみなそれに支配されてしまう。

しばしばこういう経験をすることがある。自分の思ったことは、なんでも聖書から証明できるとも言える。このようにして異端が起こってきた。

・・・異端者は、必ずしも不誠実な人ではなかった。彼らは誤りをした人なのである。彼らは、故意に誤りの道に行き、誤りを教え、説く人であるかのように考えてはならない。彼らは教会の歴史において、まじめな人物と数えられる人である

問題はどこにあるのだろうか。それは次のような点である。
つまり彼らは、ある見解を展開させた。もちろん、彼らはそれが気に入っていた。そこで彼らは、この見解をもって聖書に立ち返った。そして、彼らは聖書の至る所で、自分を同じ考えを発見するように思ったのである。

・・・自分の見方や先入観をもって、あるいは自分の気に入った考えをもって聖書を読むことほど、危険なことはない。」

人は先入観をもって物事を見てしまいがちです。
それによって、どんなことからも自分の考え方を(時には歪んだ見方で)権威の中から見つけ出し、自分の考えの根拠としてしまいがちです。

自分自身もそのようなことが無いように、先入観の無いものの見方を心掛けようと思います。

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イエス・キリスト

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