助言、対話、そして成長

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 今、ちょっとしたきっかけから、心屋仁之助さんの信者という人とtwitterで意見交換をしています。

 自分はどちらかというと(かなり)心屋氏について懐疑的なのですが、それでもこれだけ世の中に彼を支持する人たちがいるということは、何らかの魅力はあるはずです。

 ゆっくりとした意見交換ですが、今のところお互いに感情的にもならず、意見交換が出来ている気がします(今後はわかりませんがw)。

 このブログの中でも何度か書いていますが、自分は「自立」ということを一つのテーマとして普段の生活をしています。
 言い換えると、様々なものから「自由」になりたいということです。
 それは、考え方・思想においてもです。

 思考が自由になるためには、様々な考え方を取り入れなければなりません。
 一つの考え方だけに囚われていては自由になることはできないのです。

 そのためには、いろいろなところから自分で情報を仕入れるのと同時に、人からの助言というものはありがたいものです。
 自分に自信がない人、自己評価の低い人達の中には、人からの助言を常に「批判」として捉えてしまう人もいます(あるいは逆に、よっぽど自分の意見に自信があるのでしょうか?(笑))
 しかし、自分自身の成長を望んでいる身からすれば、別の視点からの意見というのは本当にありがたい。

 また、人との議論も、どういうわけか論争・争い事と捉えてしまう人も多いようです。これについては、日本人の議論に対する態度について良い記事があったので、参考までにリンクを貼っておきます。

リンク:「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。

 議論はディベートとは違います。勝ち負けではなく、お互いにより良い結論を導き出すために行うものだと思います。

 助言をもらうにしろ、議論を重ねるにしろ、それを「批判」や「論争」としか認識できず、自己を成長させる機会を自ら拒否してしまっているのであれば、それはとても勿体ないなぁと思います。

 以前、好きなことと楽なことという記事でも書いたのですが、自己の心や思考を成長させるには aufheben が必要です。
 同じ意見ばかりを取り入れるのではなく、自分と違う意見を受け入れ、対立・矛盾の合一から、より高みへと進歩するというのが大切なのではないでしょうか。
(参考:弁証法 – Wikipedia

 自分と意見が異なっていても、お互いの考えを尊重しながら意見を交わすって楽しいですよ。

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コメント

  1. ちよ より:

    Dr. Qdechさん、こんばんは。
    今、読んだ本に
    「日本人は 、何かを頼まれると 「ノ ー 」がいえない国民だ 、といわれます 。これは 、相手を傷つけないための気配りだといわれますが 、じつはそこには自分が 「ノ ー 」といわれて傷つくように 、相手も傷ついてしまうのではないかという心配が潜んでいるのです 。」
    とありました。
    指摘をすぐに批判と捉えて相手を攻撃したり「怒らせてごめんなさい。」と謝ったりするのも自分か相手が傷つくから批判=悪と捉えているんですよね。
    また人からちょっと間違いを指摘されただけで自分自身を否定された気分になる人もいるそうです。(特に女性)
    しかし、そこを乗り越えてお互い正直に話さないといきなり縁を切るか「うわべだけわかったフリをする」ということになり、自分の考えを深める、あるいは間違ってたら訂正するということができなかったり、本当にわかりあえる人を見失ったりするのではないかと思いました。
    そうしているうちに「誰も私のことをわかってくれない!」と思うようになり、うわべだけ優しい教祖様に「私の気持ちがわかってもらえた!」とハマってしまうのかも…。
    まさに「地獄への道は善意の絨毯で敷き詰められている」。
    今、考えるとゾッとします。

    〉自分と意見が異なっていても、お互いの考えを尊重しながら意見を交わすって楽しいですよ。

    私も楽しめるとこまで行きたいです。(笑)おっかなびっくり。

    それにしてもアンチに反論してくる人の「批判せずにまず受け入れて下さい」というテンプレ。ゆりさんのブログにもありましたね。
    「批判してもいい!」「批判されてもいい!」にはならないんでしょうか。(笑)

  2. Dr. Qdech より:

    ちよさん、こんばんは。

    >また人からちょっと間違いを指摘されただけで自分自身を否定された気分になる人もいるそうです。

    そうなんですよ。
    逆に人に指導や失敗の指摘をするときに「だからお前はダメなんだ」とか「そういう育ちの人は…」などと、間違いや失敗ではなく人格攻撃に走る人もいます。
    当然、それは絶対にNGなのですが、そんな感じで、行為と人格を分離出来ない人も多いんですよね。

    アメブロの方の記事(存在の価値について https://ameblo.jp/itchidepon/entry-12418957433.html )にも書きましたが、心屋メソッドは、その部分の分離をせず「何をしても良い」「何をやっても許される」と行動を認めることで自分の価値を認めさせようとしているところに大きな問題があると考えています。

    >しかし、そこを乗り越えてお互い正直に話さないと~

    の部分は、まさにそのとおりで、心が疲れ切っているときにはカウンセリングなども必要ですが、本当に必要なのは、「アサーション・トレーニング」なのではないかという気がします。
    先日書いた、ハイコンテクスト、ローコンテクストの記事のように、日本は比較的ハイコンテクストの社会であるがゆえに、コミュニケーションが下手で、共通のコンテクストから外れた人間(空気読めないとか)がイジメの標的になりやすいなどの問題もあるのかもしれませんね。

    「批判せずにまず受け入れて下さい」はねぇ…。
    まず、理解されるように説明が先のような気がしていて、批判するかしないかは、その後の判断だと思ってます。
    (そのあたりは、別途、ブログに書く予定でした)

    >「批判してもいい!」「批判されてもいい!」にはならないんでしょうか。(笑)

    自分だったら、そうなるんですけどね(笑)。
    (と思って、今、意見交換しています)
    批判されて良くないのは、本当の意味で、自分に自信が無いのかもしれませんね。