某心屋くんが、昨日、こんなブログを書いていたようだ。
僕らは常に誰かの期待を裏切っているそうだ。
一見、ここに書いてあることは正しいように見えるし、事実、部分的に正しいことも書いていると思う。
人の期待は人の数だけあって、誰かの期待に答えようとすると別の人の期待を裏切ることになるらしい。
これは場合によっては、確かにそういうこともあるだろう。
だからこそ、自分の言葉・行動が「誰に対してのものか」ということは、しっかりと意識しなければならないのだ。
「政治家が~」なんていう例を出しているが、
政治家は、国民の命と財産を守り、国民が(あるいは地域住民が)幸せになるために動く必要があるのだ。
だからこそ偏った視点ではなく、広く視野と高い視座を持って政策を進めなければならない。
(とはいっても、そうなっていない政治家が多いのは事実だが)。
「次の選挙」ではなく、10年先、50年先、100年先の世界を見据えて今の政治を担い、そのビジョンを国民に語りかける必要があるのだ。
…ちょっと話が逸れた。
心屋の「がんばらないで」は
今まで頑張りすぎた人生で苦しかったひとが
このブログに出会うようになってるのでそういうひとに向けて書いてるのだけど
「人生は頑張ってなんぼだ」と思っている
元気な人が見ると「あいつが日本をダメにする」となる。
なんてことを今更ながら書いているが、だからこそ僕は、以前から、ブログというオープンな場で誤解を受けるようなことを書くべきではないということを言っている。
今までも、心屋くんは、「お前に関係あらへんやろが」などということを書いているが、関係ないことを公の場で書くなという話なのだ。
何かを語れば
「その逆」が必ずある
ということは、ある条件では当て嵌まるが、ある条件では当て嵌まらない。
彼が書いているような、ガッツリしたパーティ料理を期待している人は、あくまでもガッツリしたパーティ料理を期待している。
「ガッツリしたものを期待しているが、ガッツリしたものを期待していない」
というのは矛盾だ。
現実の世界に矛盾は無い。ただ、事実があるだけ。
矛盾は、人の認識の中にだけ存在する。
Aさんはガッツリ、Bさんはあっさり
両方を満足させたいのなら、どうするか?それを考えるのが努力であり、工夫であり、イノベーションなのだ。
それを解決するにはいろいろな手段があるが、簡単な方法としては場所を分ける、時間を分ける、別の何かで満足させる、料理は持ち込みにする、などなど。
なぜ、心屋くんの考えているように「誰かの期待を裏切る」といったことが起こるのか?
それは、本来、個別に考えなければならないことを一緒くたに考えたり、対応していることから起こる。
これも以前、ブログで書いているが、無意味な一般化がなされているがために、AさんとBさんを一括で考えてしまったり、特殊な事例を一般的な対応のように扱ってしまっているために起こっていると言えるだろう。
以下も参照:
カルトの一般化・歪曲・省略について
何故、猫を殺してはいけないか?
ハイコンテクストな集団
そして、誰かの期待に応えるということは、その誰かのことを考えれば良いのであって、そこに関係のない人のことについては二の次にしておけば良い。
これは、アドラーの言う「課題の分離」をしっかりと行うことであって、それこそ心屋くんが
「お前に関係あらへんやろが」
と言っている通りなのだ。
ただ、「関係ない」かどうかをきちんと見極めることが本当に重要で、これまた以前ブログでヤノマミ族のことを書いたように、同じ価値観を持つもの同士が、同じ世界に暮らし、違う価値観を持っている人達と接点を持たないのであれば、それぞれの世界で幸せに暮らすことができる。
しかし、違う価値観を持つものが接点を持ち、お互いの世界に影響を及ぼすのであれば、やはりどこかで衝突を起こす可能性が出てくる。
そして、彼が最後に言っている
Aも素晴らしいが
B C D E Fも捨てがたい、「全部素晴らしい!」
という
結局は人目を気にした
あ
た
り
さ
わ
り
の
な
い人生を送るのがいいと思いまーす!
というのは、実は全然違っている。
ひょっとすると、これこそが彼の最近の状況を端的に表している言葉なのかもしれないが…(笑)。
Aも素晴らしいが、その他も全部素晴らしい
というのが多様性を認め、それぞれの価値を尊重しているというのなら、それは正しい。
しかし、それが彼の言っているように
「人目を気にした、あたりさわりのない」対応ということであれば(そして多分、彼はそう思っているのだろう)、それは多様性を受け入れているのではなく、単なる八方美人であって、まさに自分の意志がなく、自己の価値を他人からの評価によってしか認識できないということなのだろう。
「私はAが好きですが、Bが好きなあなたの価値観も認めます」
ということにはなれないのだろうか。自分がBが嫌いだって良いじゃないか。なぜ人目を気にしてBも良いと言わなければならないのか。自分がBを好きじゃないことと、Bを好きな誰かを認めないということは全くの別問題。
そのくらい理解できないのか…。
もちろん、最後に書いているように、あたりさわりなくても良い。
でも、それって、心屋くんが今まで言ってきたことと真逆のことですよね。
自己を確立しない中での(人目を気にした)八方美人は、自我の疲弊を生み、だからこそそれに疲れた人達が心屋くんのところに集まってきてたんじゃないですかね?
考えは変わっても全然良いですし、人の成長や変化ってそういうものなのだが、それであれば、今まで影響を与えていた人に対して、しっかりと訂正・謝罪すべきなのだろうとは思う。
謝ったら死ぬ病なんですかね?(笑)
それとも今更、「八方美人でもいい~」って考えを広めて、また彼のところに集まってくる疲弊した人間を増やしたいのか?(というのは穿ち過ぎな見方か?w)
ちなみに…
どうも、今、エセスピ界隈では、普通の幸せが流行っているっぽい
過激なことや逆張りで注目を引くことに疲れたのか、新型コロナの影響でネタが(あるいは金が)無くなったのか、真っ当な批判が怖くなったのか知りませんが、心屋くんのこのブログもその一端なんですかね。
でも、まず人に対して敬意を持って接するようにする。人目を気にするのではなく、自立して相手も尊重する。
そこからがスタートだと思うよ。
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