社会が健全に機能するためには、それを構成する人たちが一致団結するだけでなく、一人ひとりが自立することが必要です。
アルバート・アインシュタインの言葉です。
私は、よくこのブログで「自立」ということについて書いています。
上に引用したアインシュタインの言葉ですが、そこではまさに「自立」ということの本質について書かれています。
自立というのは、単に他人や社会に迷惑をかけないということではなく「社会が健全に機能するための条件」であると言っています。
自由であることと、自立との関係については、ここでも何度か書いています。
アインシュタイン自身が、ナチス時代のユダヤ系ドイツ人であり、自由であること、そして自立するということについて、考えることも多かったのかもしれません。
ちょっと長くなりますが、以下に彼の「国家、そして、ユダヤ人であることについて」という文章を引用します。
人々の偏見とは違う意見を冷静に表現できる人はごくわずかです。
ほとんどの人は、そのような意見を持つことすらできません。言論の自由を守るには、法律だけでは不十分です。
人が処罰されることなく自分の見解を述べるためには、万人が寛容の精神を持たなければなりません。国家の主な義務は個人を保護し、創造性を伸ばす機会を与えることです。
社会が健全に機能するためには、それを構成する人たちが一致団結するだけでなく、ひとりひとりが自立することが必要です。
何度か書いていますが、助け合いというのはもたれ合いとは違います。
自立した存在同士の関係がシナジー(相乗効果)をもたらすのだと思います。
自立というのは、言い換えれば、何者かに依存した状況にならないということです。
先日、
「あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ」
というスナフキンの言葉を紹介しましたが、
「師匠がこう言っていた」
「先生がこう言っている」
「○○さんがこう言っている」
と、誰かの言葉に振り回されてしまっているのではないか、と感じさせる人は少なくありません。
もちろん、他の誰かの言っていることに対して、謙虚に耳を傾けることは大切です。
ただ、それを鵜呑みにする、あるいはそこに責任転嫁してしまい、自分の決定に対する責任放棄があってはならないと思います。
「それで、自分はどう考えるのか?」
そのことを、常に頭において、自分自身の行動を決めていく必要があるのではないでしょうか。
そして、「万人が寛容の精神を持たなければなりません」と言っているところにも注目したいと思います。
これは、社会でも特定の組織や集団でも同様なのですが、特に均一性が高い集団になると、ちょっとした意見の違いなどに非常に敏感に反応しだします。
カルトなんかは特にそうだと思うのですが、異なる意見を持つことすら許されなくなる。
最終的に、意見・主張の違いがあったとしても、「何故」そのような意見を持つに至ったかを理解するということは重要なことだと思うのです。
初めから異論を排除するような態度は、あまり賢明な態度とは思えません。