己の欲せざる所は人に施すことなかれ
論語の言葉です。
子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。
子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人。
一生をもって、行っていかなければならないことは何でしょうか?
という問いに対して、
「自分が望まないことを人にしてはいけない」
ということを言っています。
似たような言葉として、聖書には
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
ということが書いてあります。
後者は、積極的に人に対して何かをしてあげるという態度ですが、相手も自分と同じ価値観を持っているという前提に立たないと、大きなお世話になったり、場合によっては、逆に迷惑になってしまうということも有り得ます。
一方、論語で言っていることは、人に対して積極的な働きかけはしないけれども、少なくとも迷惑をかけるということはない。
どちらが正しいというわけでもなく、これも社会の成り立ちと、その集団の文化・価値観による違いと言えるのだと思います。
前者(論語)は、人に対する過度な期待もしない代わりに、自立が求められます。
後者(聖書)に従うと、相手の価値観と自分の価値観の違いを正確に把握しなければならないため、相手とのコミュニケーションが非常に重要になります。
“Can I help you ?”ってよく訊いてますよね。
ただ、どちらの価値観で行きていくにしろ、自分と人との関わり合いを考えているのは間違いありません。
論語の言葉は、「人に不快感を与えないようにしよう」
聖書の言葉は、「人に喜んでもらおう」
という言葉です。
そこには「自分がやりたいから、人に迷惑をかけても良い」とか「自分だけが良ければ、人は困っていても構わない」という意識はありません。
「迷惑をかけても良い」
というのは、「迷惑をかけられる側」が言う言葉です。かけられる側が言うということは、迷惑をかけるという連鎖がそこで止まるということを意味するからです。
では逆に、迷惑をかける側が勝手に「迷惑をかけても良い」と宣言する社会がどうなるか考えてみましょう。
誰しも、迷惑をかけられるのは嫌ですよね?
なので、他の人との関わりをなるべく避けるようになってきます。
しかし、この社会で生きていく中で、完全に人と関わらずに生きていくのは不可能なので、常に疑心暗鬼の中で人付き合いをすることになります。
買い物もできません。
お金を払っても、品物をもらえるかどうかもわかりません。
逆に品物を渡しても、お金をもらえるかどうかわかりません。
では、どうしましょう?欲しいものがあったら無理やり奪い取りますかね?
迷惑をかけても良いのですから。
無理やり奪い取られる可能性を考えたら、先に相手を痛い目にあわせておきますかね?
迷惑をかけても良いのですから。
痛い目に合わせるだけだと復讐されるかもしれないので、殺しちゃうかもしれませんね。
迷惑をかけても良いのですから。
殺される前に殺してやるってなるかもしれませんね。
迷惑をかけても良いのですから。
「人に迷惑をかけても良い」と、自分で自分に許可を与えて出現するのは、こんな地獄絵図です。
「何故、猫を殺してはいけないか?」の記事に書いたように、「人に迷惑をかけてしまうこともある」ということであれば、もちろん生きていく中で、そういうこともあるでしょう。
しかし、それはあくまでも結果論です。
そして、もしそうなってしまった場合は、自分でしたことに対する責任を果たす必要があります。
仏教では「自業自得」「因果応報」という言葉があります。
自分でしたことの結果は、自分が受けるという、子供でもわかるようなことです。
自分が人に迷惑をかけられないようにし、社会で生きる皆が安心して生活できるようにするために
「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」
という言葉は、頭に留めて生きて行きたいものです。