あけましておめでとうございます。
今年最初の記事執筆です。
昨年は、第4四半期くらいから記事が多くなってきましたが、結構な割合で心屋氏関連(というか、そこからインスパイアされた)記事が多かったので、もうちょっと、元々のテーマに沿った記事も多くしたいと思っています。
さて、昨年末、たまにコメントさせていただいている「波動探求と日本再発見と物書きをしております。」というブログに、かなり前に書き込んだコメントにレスが付いていたので、ちょっと考えてみた。
コメントは、有名な「水からの伝言」という本に関する批判。
コメントについたレスは、長いので直接読んでいただきたいのですが、簡単に言えば、反・疑似科学批判。
「あまりに酷いので」
とコメントが始まっているが「あまりに酷いので(笑)」(コメント欄じゃなくて)改めてここで書いておこう。
(「事実確認が全くなく思いこみだらけで結論を出してしまうあなた方とは議論をする気になれないので判断は引用以外のリンク先をよ~く読んでご自由に。」と書いてあるしねw。ぶっちゃけ、そのままブーメランなのだが…)
コメント中に紹介されていたまとめ(https://togetter.com/li/86102)は、早川由紀夫さんという、東日本大震災のときにトンデモ発言をいろいろして大顰蹙を買い、勤務先である群馬大学からも訓告処分を受けているトンデモ地質学者さん。
まあ、このまとめを読むと、ああいう発言をするだろうなぁという気はする。
むしろこの早川さんという人が「事実確認がまったくなく思い込みだらけで」福島の農家に対して酷いことを言い続けてきた人。
まあ、取り敢えず、それは置いといて…。
(まとめについていたたくさんのコメントを読んで、読者の方々自身で評価してください)
コメントの最初に書いてあった
そもそも科学に万人に受け入れられる定義が存在しません。
よって科学の中に客観性が大前提という絶対的な縛りはありません。
という部分ですが、客観性が前提じゃなかったら
「私がそう思ったから」
で、何でも済んじゃうじゃないですか(笑)。
もちろん、そういう世界もありますよ。
哲学だって、宗教だって、それで充分です。
でも科学でそれをやりだすわけにはいかない。
紹介されたまとめの中では、早坂氏が
たとえば広辞苑は科学を次のように定義している「体系的であり、経験的に実証可能な知識」この定義はそれなりの長所をもつが、そのニセモノを定義できるほど精緻な定義ではない。経験的に実証可能かどうかの判定を万人が同意するのはしばしば困難である。
ということを言っていますが、
「経験的に実証可能な知識」
が万人に同意を得るってどういうことを意味すると考えているんですかね?
まさか、一人でも同意しない人がいたら定義として成り立たないとか思ってるんでしょうか?
それなら僕が「グッチはこう言ってるけど、グッチのニセモノだってグッチと変わらないんだからグッチのニセモノなんて定義できない」って言うことだってできますよ。
(詳細に言い出すとキリが無いのでやめますが…)
逆に、科学の定義って何だと思ってるんですかね?
自分が理解できないものは間違っているという態度は、昔からこの手の人達にはありがちなパターンなのですが、「コミュニケーションのあり方」という記事で書いたとおり、もう少し、情報の受け手側としても努力を払ってほしいものです。
さて、「水からの伝言」の話に戻しましょう。
問題点は「【疑似科学】水からの伝言」の記事に書いたとおりなのですが、そもそも自分に都合の良い結果だけを取捨選択しているという時点で科学としてはお話しにならない。
当然、追試験でも同じ結果が出るはずはないのですが、それ以前に、「まずは説得力のある証拠を出す」というのは、新しい学説を出した側の責任です。
「事実確認が全くなく思いこみだらけで結論を出してしまう」
という言葉は、まるっきりのブーメランで、まずは思い込みだらけではない実験結果を出してから言ってくださいということです。
以前、「スピ系の何が問題か?」という記事でも書いたとおり、たとえ全く新しく確認された現象や理論だとしても、きちんと手順を踏んで、理論を構築して、新しい分野に挑んで行けば、必ず検証してくれる人が出てきます。
それができないから「疑似科学」「ニセ科学」と言われて終わってしまうわけです。
「こういう現象があった」
という事実は重要です。
ただ、それが勝手な思い込みに繋がってはいけない。
Aという現象のあとに、あるいは同時にBという現象があった。
だからといって、即、AがBの原因、BはAの結果ということにはならないのです。
この短絡的な原因と結果の結びつけが、疑似科学・ニセ科学、スピリチュアル、エセカウンセラーに騙されやすい人たちの特徴のひとつであるように感じます。
「人の認知パターンについて」という記事では「枚挙的帰納法」について少し説明しましたが、ほんの僅かの事例だけで、何かの理由を決めつけてしまう。
カラーバス効果や確証バイアスにより、正しいと思えるようなものが目に入ってくる。
「こういう状況になっているのは、これが原因に違いない」
「これが起きたのは、○○とシンクロしている!」
自分からしたら、ちょっと客観的に見れば恥ずかしくなるんじゃないかというようなことを平気で口に出し始める(黙っていれば良いのにw)。
そして、そもそもが僅かな証拠の中で信じ込んでしまったものだから、僅かな証拠で別の何かを信じ込んでしまう。
スピリチュアル・ジプシーと呼ばれる人たちも、そんな精神構造を持っている気がします。
—2019.01.04追記—
「超個人的備忘録」というブログで、この記事の元となっているコメントについて所感を書かれていましたのでご紹介します。
とても良い考察だと思います。
コメント
あるサイトでは子宮系とかいうトンデモ科学?スピリチュアルを脱会するのに役立つホームページとして勧められていますが、竹久さんもトンデモ科学だしスピリチュアルだしセミナー講師やって飯食う人だし得ている金銭の大小の違いはあれど社会の害としてどっちもどっちだと思います。
シャーマンが国家元首な国でアニミズムに向きやすいのは多くの日本人で共通だと思いますが、2000年くらい変わらないですね。
いつの時代も日本ではエビデンスに基づく科学よりも常世の神が信仰を得るのです
http://www.sunfield.ne.jp/~oshima/ccd/aki9.html
ただのアゲハチョウの幼虫
んーと、竹久さんの批判をしたいならそちらに書いて頂いた方が良いと思いますよ。
ちなみに、ここに書いてある「水からの伝言」の件に関しては、竹久さんの見解については僕は否定的な立場でコメントしています。
何故、こちらにコメントを頂いたのかちょっと不明です。