心屋くんは面白いな―(笑)
夏タイヤで雪道を峠攻めして遭難しかけたらしい。
タイトルには
「やってみんと分からんもん」
と書いてあるが、ある意味、正しい部分もあれば正しくない部分もある。
自分の体験はとても重要で、人から聞きかじったことや本で読んだだけのことを、浅い理解でわかった気になってしまうということには気をつけた方が良い。
しかし、逆に言えば、それは思慮が足りないということも言えるのだ。
人類が何故、ここまで文明を発展させてきたか?
それは、言葉による他者とのコミュニケーションと、更には文字によるコミュニケーションで時間と空間を超えた知識の伝達ができるようになったからに他ならない。
個々の人間にとっては、未知の領域は限りなく多い。
そしてそれは当然のことながら、若い人間ほどたくさんある可能性が高い。
歳を重ねる毎に、経験は増え、知識を取り入れて知っていることも多くなってくる。
その一方で、思い込みに縛られたり、時代や環境、条件が変わっていることに気づかずに誤った判断をしてしまう可能性も高くなる。
では、やってみた方が良いこと(体験した方が良いこと)はどういうことなのか?
一つは、まだ誰も知らないこと
最先端の研究や、人類初なんていうのが当てはまる
他には、体験そのものに価値がある(と思われる)こと
例えば、趣味の活動など
当然、どちらも法に触れたり、人に迷惑をかけないことが大前提となる。
逆にやらない方が良いことというのは、
体験した人が数多く存在し、価値がなく、場合によっては人に迷惑をかける可能性がある
こと。
今回、心屋くんが体験した、夏タイヤ走行による雪道でのスリップなんていうのは、数え切れない程あるし、当然、事故を起こせば他人に多大な迷惑をかけることになる。
心屋くんが
「雪道をかっこよく走れるワシ△」
とか価値を感じてたかどうかは知らないが、もしそうでなければ、いい歳して、あまりにも思慮が足りないと言わざるを得ない。
上に書いたように、人類は、他者の体験を自分のものとすることによって、個体が体験できる以上の知識を得ることができ、個人が個人として体験できる何倍もの人生を送ることができます。
以前書いた「読書と成長、進化」という記事も参照していただけるとありがたい。
もう、30年近くも前に読んだ、ある小説に以下のようなセリフがありました。
他の連中にとっては、死は死でしかない。かれらは仲間の死から、何ひとつひきつがない―我々、人間だけが、同胞の死を自らの生へとむすびつけることができるのだよ。……我々は巨大な一つの共生体だ
以前書いた「魂が学ぶとはどういうことか」という記事の中でも、僕は心屋くんのことを
「そのような学び方しかできないのであれば、いずれその人間は破滅へと導かれる可能性が高い」
と言っているのですが、今回、事故って天に召されなくて良かったですね(笑)。