相手の人格をどう評価するかについて考えてみた

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最近よく読ませていただいているこちらのブログ

超個人的備忘録

に「行為否定と人格否定の同一化」という記事が書かれていました。

最近、某心屋さんや、その信者さんの発言を目にしたことをきっかけに、この「人格否定」と「行為否定」の同一化についていろいろ考えています。

以前、「存在の価値について」という記事に書いたことがありますが、行動と人格については、分けて考えるべきなのに、何故、それを同一視してしまうのか?

上に紹介したブログの中では、「自身の知識や経験の絶対視」について書かれていましたが、僕は単純な人間なので、ちょっと根本的な部分から考え直してみました。

マズローの説を出すまでも無いのですが、人間誰しも「承認欲求」があることについて異論を唱える人は少ないのではないかと思います。

承認欲求も、細かく分けると「他者承認」と「自己承認」に分けられ、他者承認の方がより低次な欲求であると言われています。

他者承認を得たい場合、自己を高め、社会的地位や名声を得ようと努力するということが真っ当な成長の過程で実施されるわけですが、精神的に未熟な場合、単純に見かけだけに囚われ、より、お手軽な手段としてはブランド品を身につけたり、高級車に乗ったりという「間接的自己呈示」による虚栄的補償行為で、あたかも自分が一流の人間になったかのような気持ちになります。
高学歴や大企業への就職ということにだけこだわり過ぎるというのも、この一種ですよね。

単に見掛けだけで、その人間の価値を評価する
(見掛け=人格評価)

というのが第一段階。
このレベルに留まっている人は、

「あの素晴らしい(見掛けの)人が言っているから」

という理由で、人の言うことを信じてしまう。
だからこそ、詐欺的なMLMに嵌って行き、自らも他人を巻き込んで行こうという人間やキラキラ起業に嵌まる人たちは虚飾に身を包み、それだけで自分の価値も上がったように感じて行く。
そして、そこには、最初に紹介したブログでも語られている通り「全く悪意など無い」のでしょう。

人は見た目が9割 という本が話題になったように、そのレベルに留まっているのは案外、多いのかもしれません。

そして、次の第二段階として、人は外見だけではなく、その言動や行為に対して相手の価値を感じ、評価するようになるのだと思います。

その人が、普段、どういうことを言っているのか
普段、どういう行動をしているのか

場合によっては、その言動と行動が一致しているのか、言行一致も見られると思いますが、どちらにしろ最終的には、その人が世の中に与える影響の大きさが判断されるのかなと思います。

場合によって、その行為が「偽善的」などと批判されることもありますが、一方で、「やらぬ善よりやる偽善」という言葉もあるとおり、結局のところ、神ならぬ身では、相手の心の中など知る由もなく、目に見える行為・言動から、それそのものを判断するしかない訳です。

何か善行をした人も本心では「自分が周りから尊敬されたい」ということを目的にしているのかもしれない、良い言葉を語っている教祖も「信者を引き留めて置きたい」だけなのかもしれない。

穿った見方に感じられるかもしれませんが、周りの人にはわかりませんし、一方で、そういう行動をする本人でさえ、その行為によって、自分が優れた人間になっているという勘違いをしているのかもしれないのです。

もう、何十年も前に読んだ本ですが、エマニュエル・スウェデンボルグという霊界を行き来してきたという有名な人がおりまして(ニュートンと同様、優秀な科学者でもありました)、その人の書いた「霊界からの手記」という本の中に以下のような記述があります。
ちょっと長いですが引用します。

私は、パウロとは何度も話しをした。彼も、やはりダビデ同様に、自分が神になりたがる例で、自分の「使徒書簡」(新約聖書の「パウロの使徒書簡」)などは、霊界ではなんの価値もないものなのに、それに気づいていなかった。彼は、またこの世の栄光が、死後の世界にもそのまま持ち込めるかのように思い込んでいた。
私の見たところからすると、彼はキリストの悪い使徒の中の最悪の部類のひとりだった。彼は生前から説教をするときにも利己的な自己愛を捨てられなかった人物だが、それを霊界にも引きずってきていた。

(中略)

パウロは、彼の唯一の悪友とともに、自分たちだけの天国を作りたいと考えていた。そうなれば、彼らはもっとも高位の霊として暮らせるし、それは、彼らにはうれしいことに違いないからだった。しかし、これは、霊にも生命も幸福も与えるのが「天の理」であって、霊も人間も自分だけでは立てず「天の理」によって自分が生かされているのだということを、知らないことにほかならない。そこで私は彼に、「あんたが考えているようなものは、天国なんかじゃなくて地獄だ」と教えてやったものである

(「続 スウェデンボルグの霊界からの手記」より引用)

ここで書かれているパウロは新約聖書に出てくるキリスト教の使徒で、精力的に伝道活動をした人です。もちろん、上に引用したようなことは、キリスト教での正式見解でもないですし、パウロを批難するつもりもないのですが、行動と人格は必ずしも一致しないという例で引用させてもらいました。

また、以下のようなことも書かれています。

私は、霊界で、この世にいるときに聖者とされていた人々と会って、聖者に三種類の聖者があることがわかった。第一の種類の聖者は、自分が聖者としてあがめられるのを嫌っていた人たちで、彼らは霊界では最上の天国にいるのだった。第二の種類の聖者は、口では自分があがめられうのを嫌っているようなことをいっていた。しかし、内心はそうでなかったというタイプの聖者である。そして、第三の種類のもっともレベルの低い愚かな聖者は、自分があがめられることを求めた者たちであった。

そのように考えると、人の行為や言動によってだけ、その人の人格の評価をするべきではないということが少しわかりやすくなるのではないかと思います。
(良い評価も悪い評価もです)

ちょっと説明が長くなりましたが、人格否定と行為否定の区別がついていない人というのは、上のように考えると、まだまだ他者承認欲求が満たされていない可能性もあるのかなぁ…という気がしています。
そして、他者承認欲求が満たされていないっていうのは、自己愛も同様に足りないんじゃないか?自分自身のことも見つめ直す必要もあるんじゃないかな…って、ちょっと思いました。

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コメント

  1. ちよ より:

    Dr. Qdechさん、こんばんは。
    お忙しい中、更新ありがとうございます!
    今回もとても参考になりました。
    これを読んで「天国に行くために自分が聖者としてあがめられるのを嫌う」フリをするというアクロバットに出る人がいそうな気がします(笑)
    (私がスピ脳の時にそういう捉え方だったからw)
    そういうウソで塗り固められた聖者のフリを見抜くってなかなか難しいと思いました。
    見抜くためにも時には違う意見に謙虚に耳を傾けるのも大切だと思いました。

    • Dr. Qdech より:

      ちよさん、こんにちは。
      コメントありがとうございます。

      >これを読んで「天国に行くために自分が聖者としてあがめられるのを嫌う」フリをするというアクロバットに出る人がいそうな気がします(笑)

       引用の中の「第二の種類の聖者」ってやつですね(笑)
       ブログの中にも書いてあるとおり、やっている本人も自覚なくやっている場合もあると思うので、なかなか厄介ですよね。

       でも「分析・判断する力は他人よりも自分に使った方が有益です」という記事にも書いたとおり、他人の分析に労力を使うよりも、まずは、自分が何をすべきか考えるのが先決のような気がします。
       人が言ったことによって、その人を評価し、崇拝するのではなく、その内容が正しいのか?有益なのか?を自分で判断し、糧にすることが大切なのだと思います。
       お釈迦様が言った「自灯明 法灯明」の通りかな、って気がします。

  2. 加々見 より:

    いつもありがとうございます。
    最近は大人しく教祖や仙人のブログを眺めていました。
    その際に感じたのですが、ダブルスタンダードな方が多いなぁと。
    全ての方がそうではないと思うのですが、ネットで読める範囲の文章を見ていると、
    「あれ?前と言っていることが違うなぁ」
    と思うことがあります。
    私の記憶力が曖昧なのか、真実は1つではないと言う毎度の教えなのか。
    教祖も仙人も毎日勉強をしており、日々成長しているのでしょうか…。
    学びに終わりはないと言いますが、その通りだと感じました。
    「私も過去に数千人の相談に乗ったことがある」
    なんて言う文章見ると、若いのに秒刻みで生きているんですねと感じます。