自由意志についての考察

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前回の記事で「精神的自由」ということについてちょっと書きました。
我々の多くが、自分は自由意志を持っていると思っているでしょうが、実際のところはどうなのでしょうか?

以前、「占い・予言・自由意志」という記事の中で、占いや予言と自由意志の関係について書きました。
人の行動は、外部からの刺激に反応しているだけのように見えることが、かなり多くあります。

既に日本語版は絶版になっているのですが「模型は心を持ちうるか」という有名な本がありまして、その中では、非常に簡単な仕組みで、模型があたかも心を持っているかのような振る舞いをするという思考実験が行われています。
(英語版はまだ手に入りますので、御興味のある方は御一読を)

簡単に言えば、センサーと動力を組み合わせた模型でしか無いのですが、例えば、最近、普及し始めている自動車の自動ブレーキ。これも、ある意味、車が心を持って「人にぶつかってはいけない!」と、自動的に走行を停止しているように見えなくもない。

では、自由意志についてはどうなのでしょう?

先程の自動ブレーキの例でいえば、止まっても止まらなくても良いという選択肢は、基本的には無いですよね。

では、自由意志って何なのか?
少なくとも、ある一定の条件に従って意思決定していたとしても、単なる反応だったとしても、外部からは意思決定の結果しかわかりません。
何らかの選択肢があった上で、自由意志に従って行動を選んだとしても、行動した本人しか、実際のところはわからないわけです。
誰かの意思決定について、外野が「誰かに洗脳されている」とか言ったとしても、それは、言っている側も、言われている本人にとっても真実はわからないのかもしれません。
(気づきは与えられるのかもしれませんが…)

我々は、普段、自分の意志で生きているつもりでいますが、夢の中ではどうでしょう?
たまに明晰夢と呼ばれる、夢だと自覚できる夢を見ている場合もありますが、多くの場合は、夢という自覚の無いままにその中で行動し、意思決定していると思います。
そしてその行動や考えは、目が覚めているときには訳がわからない行動になっていることも多いものです。

ソクラテスは、

「我々はもし、今のこの現在、目覚めているのか、それとも眠り(夢)の中にいるのかと尋ねられたら、どんな証拠を示してこれに答えられるだろう?」

という問いを発しました。

C.G.ユングは自らの夢の中で、瞑想に耽るヨガ行者が自分の顔をしていることに、自分がそのヨガ行者の瞑想の中の産物で、行者が目覚めたと同時に自身の存在も消え去ってしまうという恐怖に駆られたそうです。

今、自分が認識していると思っている世界、自分の意識は、意外とそんなものなのかもしれません。


さて、我々が、真の意味で「自由意志を持っている」と確信するためには、ひたすら自己観察を続けていくしかないように思えます。

「今、自分は何を考え、何を感じているのか?」
「自分が今考えたことは、何を根拠にしているのか?」
「何故、このように感じるのか?考えたのか?」

今、世の中でAIについての話題が多くなっています。
多くは、単なるパターン認識、機械学習についての話題でしかないのですが(それはそれで重要な技術です)、真の意味で「人工知能」と言える存在になるためには、それ自身が自己を認識し、自己成長を遂げていくということが必要になってくるのかもしれません。

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