言葉の理解とアフォーダンス

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昨年から実施していた、twitter上での心屋信者さんとの意見交換。
その中で、僕が信者さんのことを「決めつけている」ということで揉めたことがあります。

僕としては、全く決めつけているつもりはなく、単に確認しているだけの言葉が、何故か「決めつけ」と受け取られたようです。

「こういう表現なら決めつけではない」「こういう表現は決めつけ」

と、説明されたのですが、僕からすれば全く区別がつかない。

まあ、最終的には、決めつける意図はないということは理解してもらったようですが、どこでそういう誤解が生じるのか、考えてみました。

twitter上での説明の中でも述べたのですが、僕は「決めつけ」というのは「根拠無く何らかの判断に至る」ことだと思っていて、そうならないために、確認や質問をしていくことが必要だと考えています。

つまり「決めつけ」というのは、文脈から判断するものであって、単に一つの文章から判断できるものではないと考えます。

「決めつけ」に限らず、言葉を使ったコミュニケーションの中では、個々の単語や単文の意味が辞書的なものから外れ、比喩的に使われたり、同じ単語でも別の意味で使われたりすることは多々あります。だからこそ、それまでの文脈の中で、言葉を発した相手がどのような意図で、その言葉を発したかを考えなければ、誤解が生じる可能性があるのだろうと思います。

ところで、僕は大学院時代、視覚認識の研究をしていて、その関係もあり「アフォーダンス」関連の本もたまに読んだりしていました。
その基本的な考え方としては、

『人間は「環境→刺激→脳内処理→情報」という流れで情報を得ているのではなく、情報は環境そのものの中に実在している』

というもので、その理論の中には「コンテクスト」という単語がよく出てきます。
要するに、人間は、単なる要素の総和で表せない情報を知覚しているというところから問題提起が始まっているようです(確かw)。

例えば、あるメロディーを考えたとき、当然、それは個々の音という要素から出来ているのですが、転調したとしても、メロディーラインとしては同じものが聞こえます。つまりメロディーというのは個々の音とは異なるレベルでの情報を持っているわけです。

以前、「ハイコンテクストな集団」という記事の中で、コンテクストという言葉を出していますが、これを日本語に訳すと文脈となります。

上に書いたように、僕は文章をきちんと理解し、コミュニケーションを成立させるためには文脈の中から文章、単語の意味を汲み取ることが必要だと思っているので、アフォーダンスの考えを上手く使って、コミュニケーションに使われた一連の文章全体の中から相手の意図を汲み取るようなことはできないか?
…と、ちょっと思いつきました。

で、調べてみると、自分のようなボンクラな頭しか持っていない人間が考えつくようなことは、当然、世の中にいる優秀な方々は考えついているわけで、ちょっとググってみると平成24年から名古屋文理大学で「学生のコミュニケーション能力の向上」を目標として日本語力Ⅰ・Ⅱという必修科目として実施されているらしいです。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180406024716.pdf?id=ART0010586246
(アフォーダンスに基づく授業デザインの改定は平成28年から)

ざっと、こちらの文章を読んでみると、

抽象的概念を理解できない学生が増えている

という課題から、このような勉強を学生にさせているようで、授業デザインの柱は

  1. 文章デッサン:見たものを言葉にする
  2. 村上春樹「牡蠣フライ理論」に倣う:趣味・嗜好を通して自分を語る
  3. 文の要約:イメージを形づくる,イメージを言葉にする
  4. クリティカル・シンキング:考えを論理的に構成する

という4つから成っているようです。

自分からすると、こんなことくらい大学に入る前に身につけておけよ、と思うのですが、現実をみると、そういうことも言っていられないらしい(笑)。

また、この文章の中には「たとえ話が理解できない学生」が増えているということも書いてありました。
個人的には「たとえ話」って、物事の共通部分を理解し、他に応用するための重要な手法だと思うのですが、それが理解できないって、もう抽象化能力が無い、他の人の話が理解できない、目の前のことしかわからない動物(あるいは小さい子供)と同じって思うのですが、そういう人間が増えているって、初等教育の問題のような気がしてきます…。
(※「読書と成長、進化」も御参照下さい)

僕の著書でも、抽象化と具体化の行き来は、創造性開発や問題解決のための重要な要素になっているので、その部分に関しては、また別途、ブログとして書いてみたいと思います。

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抽象画

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コメント

  1. 加々見 より:

    おはようございます。
    今回も勉強をさせて頂きました。
    お忙しとのこと、季節柄お身体をご自愛下さい。

    少し長くなってしまいますが、お許し下さい。
    2点ほど書かせて頂きます。

    1点目は、心屋の件です。
    心屋はNLPをベースにした心理療法(療法と言っても自称ですが)を得意としていたと思いました。
    しかし、その手法を使った理解・伝達は信者の方に理解されていなかったと感じました。
    そもそも、NLPとキーワードを出す必要はなく、心屋のやっていることはあくまで洗脳レベルではないかと推測しています。

    2点目は抽象的理解についてです。
    他の方のブログでも書かせて頂いておりますが、私は仙台にいる自称仙人を好ましく思っていません。
    その理由の1つに、抽象的という言葉を使って物事をぼやかし、そのぼやかしを信者には「自分はレベルが高いから理解できている」という知的カーストを引いて納得をさせている部分です。
    私の認識では、抽象的なことを理解するためには概念化と疑似化が必要だと思っています。
    自分で抽象的なことを理解しているだけなら良いのですが、それが出来ないことを、あたかも「まだステージに到達していない」と言う表現で分類するのはナンセンスかと。
    私は自分の中で物事を整理する上で、あえて抽象化してフォルダー容量を増やすことはしますが、それを人に押しつけるようなことは避ける様にしています。
    むしろ、自分の中で抽象化出来ているのなら、それを他人に分かりやすく説明する技術(概念化と疑似化)が必要なのでは?と感じます。

    ブログ内容とコメントが外れていますことをお詫びいたします。
    ひでぽんさんへの批判ではありません。
    偽スピ系の方々への疑問です。

    • Dr. Qdech より:

      加々見さん、コメントありがとうございます。

      まず、心屋氏がNLPを学んだということは、私もどこかで聞いたことがあるのですが、彼のカウンセリングのどこに使われているのかよくわかんないんですよね。
      まあ、NLP自体が結構、いろんなところからの寄せ集めを整理した感があるのですけど…。
      クライアントとの間のラポールに使っているのか、どうか?
      むしろ、直接的には、フリッツ・バールズのゲシュタルト療法に近いものを感じます。
      もっとも、使い方やフォローが適切かどうかということには非常に疑問がありますし、更には「認定講師」と言われる人たちにそこまで伝えているとはとても思えませんので(心屋氏自身が理解しているかどうかも疑問です)、本当にカウセリングが必要な人達の心を、配慮なしに弄んでしまうことになることを危惧します。

      もう一つの抽象的理解については、概念化と疑似化について、ちょっと私の考えとは異なる部分もありそうで、長くなると思うので、別途ブログ記事にしようと思います。
      ちなみに仙台の仙人という人については、彼がスピ系に行く前に、何度か話をしたことがあって、付き人という人とも何度か会って話をしています。
      そのあたりを含めて、竹久さんと連絡を取るようになったのですが、彼については、ちょっと何やりたいのかわかんないところがありますねー。

  2. 加々見 より:

    レスをありがとうございます。
    NLPに関してはあまり明るくないのですが、心屋はどの分を活用しているのか、私も良く分かりません。
    抽象的理解については、私もモヤモヤしている部分が多分にあります。
    是非とも、ひでぽんさんのお考えをお聞かせ下さい。
    知的好奇心騒いでいます!

    仙台の仙人、お会いしていたんですね。
    マジシャンの頃なのか、その後のメンタルマジックを主としたカウンセラーの頃なのか…。
    付き人も現在はアフェリエイトで稼いでいるブロガーしか表に出来てませんが、色々といる感じを受けます。
    根は悪い人手はないと思っているのですが、彼自身も誰かにコントロールされている様子が伺えます。
    あくまで私の妄想の範疇ですが。
    彼は年齢も若いので、まだまだ色々な経験をした方が良いのかな、とも思います。

    では、お忙しいと思いますが、勝手に(?)別ブログの記事を楽しみにさせて頂きます。