KAIWAINGはどうして、色々と良いことも言っているのに変な方向に行ってしまうのだろう…?
きっと、得た知識(聞き齧ったことも、体験したことも含めて)について深く考えず、短絡的に「これが正解!」と考え、本質的なところに目が行っていないのだろう。
あるいは、確信犯的に自己利益を得るために、おかしな方向に誘導していようとしているのか?
よく僕のブログを読んでくださっている方が、心屋さんのブログの感想を書いていたので、僕もちょっと読んでみた。
どんな子供のことも愛せるのか?
親のことを許せるのか?愛せるのか?
まあ、前半部分の感想は、敢えてここでは書くのを控えよう。
僕は、この記事を読んで、心屋氏のこの書き方に心屋氏の人間性の本質があからさまに出ていると感じてしまった。
そんなことができなかった親をいま
認めて愛してあげることは出来る?どーだい、
できないよね?
先日、僕が書いた記事の中でも紹介しているが、彼は
精神科医 片田珠美氏の批評に対しては、
「あなたたちのこと悪く言ったり、攻撃したり、不利益を与えた覚え、いちども無いんですけど?」
と反論し、八木龍平の批判に対しては
「ワシが一度でもキミを攻撃したのか?!」
と返す。
まさにこれと同じパターンが今回の記事の中にも現れている。
愛してもらったから、相手を愛することができる
親に愛してもらえなかったから、そんな親を愛することはできないでしょ?
と言っているのだ。
心屋氏の人間性は
Take & Give
なのだ。
お金は出せば入ってくる
などと無責任なことを語る割には、GiveよりもTakeが先に来なければ自分の行動に繋がらない。
これのどこに愛があるだろう?
エーリッヒ・フロムは言っている
愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。
そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
愛は、感情ではなく意志なのだ。
できるできないではなく、やるかやらないかなのだ。
ちょっと話は変わるが、アダム・グラントの「GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代」という本がある。
この中では、人の特性を
- 「与える人(giver)」
- 「受け取る人(taker)」
- 「帳尻を合わせる人(matcher)」
という3種類に分けている。
giver は
基本的な対人関係のスタンスが「与える」「何かしてあげる」という考え方の人
taker は
基本的な対人関係のスタンスが「奪う」「何かしてもらう」という考え方の人
matcher は
バランス型で、「してもらったから、してあげる」という感覚の人
心屋氏は、これらの中でどこに分類されるんでしょうね?
ちなみに、心屋氏の今回の記事の最後の部分
自分ができないことを
他人に求めるのはやめよう。
逆に
自分ができるから、
出来てるからと言って出来ないひとに
求めるのもやめよう。
これは正しいと思う。
他人を自分の思い通り動かすことなんて出来ないし、他人の行動はその人自身が決めること。人に強制する必要も無い。
ただ、その言葉を「できないものはできない」と、自分自身の言い訳に使う必要も無いのだ。
人は社会で生きていくにあたって、必ず人と関わっていく必要がある。
その際に、適切な距離を保ち、干渉し過ぎず、干渉され過ぎず、アドラー的に言えば「課題の分離」を心に留めつつ生きていくことが大切なのではないかと思う。
周りの人とどのように関わり合いながら生きていったら良いのか
僕は、フレデリック・パールズというゲシュタルト療法の創始者が作った「ゲシュタルトの祈り」を思い出します。
Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du –
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schoen,
wenn nicht, dann ist auch das gut so.
[訳]
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
世に出回っている訳では最後の一文を
「出会えなくても、それは仕方のないことだ」
と訳しているものが多いのだが、本来であれば、「仕方ない」という否定的な意味を含ませた翻訳ではなく、上で紹介した訳のように、出会えないことにも価値があるという訳語にするのが適切であるように感じる。
自分の人生は自身で決めることができ、他の人に依存したり、自分自身を押し殺してまで他人のために生きる必要はない。
しかし、そのように自立した人たちが偶然により出会い、お互いに良い影響を与えられるのであれば、それは素敵なことなのだと思う。