5/28に起きた川崎市の殺傷事件で、立川志らく氏が言った
「死にたいなら一人で死ぬべき」
という言葉について賛否の声があるようです。
反論の発端は、NPOほっとプラス代表理事である藤田孝典氏のこちらの記事。
「川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい」
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666
彼の主張にあるひとつひとつは、全くの正論であるように見えます。
曰く
- 社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない。そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
- 人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない。
- 社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。
しかし、やはり彼の言葉に賛同できないのは、その言葉の中に、一見、人間に対する愛があるように見えて、その実、人に対する愛や信頼が感じられないからなのかもしれません。
賛同できるのは、最期の「他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい」ということくらいでしょうか。「凶行が繰り返されないように」ではないですが。
彼の言うことを簡単に言えば
「社会が彼を受け入れなかった。だから彼は犯行に及んだ」
ということ。
問題は、この理屈から「社会が彼を受け入れれば、彼は犯行に及ばなかった『かもしれない』」という思考に及んでいる部分だと思います。
二元論的思考に嵌り、Aが正しくなければ、not Aは正しい というような短絡的な考えも危険ですし、誰かを受け入れるというのは、以前も書いたように、その行為を受け入れるということでもありません。
社会が彼を受けれれば、彼は犯行に及ばなかったのか?と言えば、それは「わからない」としか言いようがありません。
人間は自分が大事にされるから、他者を大事に思いやるのでもありません。
その考えは、まさに「社会は何もしてくれない、自分を責め続ける」という思考・感情に繋がっていくものなのだろうと思います。
他者を大事に思いやるから、自分が大事にされるのです。
順番が全く逆です。
自分を愛し、認めるのは、他者ではなく自分自身なのだと思います。
社会から何もしてもらえない、他者は自分を大事にしてくれない
そこにしか自分の存在価値を見出だせないというのは、あまりに自分に対する愛が不足しています。
僕は、よく「自立」ということを書きます。
時には手を差し伸べることも、優しい言葉をかけることも必要かもしれません。
しかし、人々が自立していない社会では、やはり今回起きてしまったような「歪んだ自己顕示欲」や「拡大自殺」という問題は無くならないような気がします。
人の自立というは、自立した生活というような物理的なものではなく、むしろ「精神的な自立」が重要だと思います。
報道では犯人が
「食事や洗濯も自分でやっているのにひきこもりとはなんだ」
などと反発していたということが言われていますが、いい歳して、そんな反発が出てしまうということ自体が自立していないことの現れだと思います。
(ちなみに、僕は別に「引きこもり」→「犯罪」とは思っていません)
「死にたいなら一人で死ぬべき」
という言葉は、自立している人間なら理解できる言葉だと思います。
「歪んだ自己顕示欲」や「拡大自殺」というのは、精神的自立ができず、周りに認められなければ自己の価値を認められない人間だからこそ出てくる発想でしょう。
「自分が」「自分は」と自分中心にだけ見ている世の中から、ほんの少しだけ視野を広げ、少しだけ高い視点から世の中を見るようにしてみたら良いと思います。
渡邊ダイスケって人の「善悪の屑」っていう漫画があるんですよ。
ちょっと問題作なんですけどね。
https://booklive.jp/product/index/title_id/60002112/vol_no/005
その中のある話の中で、名門小学校に通う子供が殺害された事件があって、その犯人に対して復讐請負人が言うセリフがあります。
ちなみに犯人は、兄弟の中でただ一人だけ進学校に進めず、派遣社員として働いている人間。
犯人は
「オレには心のブレーキが無ぇんだよ」
「だから世の中のバカタレ普通人間共にできない事がオレにはできる!」
「オレはおまえら凡人とは違うんだよ!」
それに対して
「アンタに一つ言っとくけど、人を殺すなんてやろうと思えば誰にでもできる事なんだよ」
「刃物を使えば子供にだって大人を殺せる」
「でもやらない。意味が無いからねぇ」
「アンタは自分に自信が持てないから他人がやらない事をやって」
「他人より上だと思い込んでるだけなんだ」
「でもアンタがやった事なんて 頭も努力も要らない」
「バカでもできる事なんだよ」
社会が、周囲の人たちが一人の人間に対して伝えるべきことは(もちろん伝え方に気を遣うというのは前提条件ではありますが)、相手を甘やかすことではなく、事実をありのまま伝えることでしょう。
事実を事実のまま認識することがスタートです。
自分だけの世界で「自分は凄い」「やりたいことだけやってる自分は幸せ」「何をやってもいい」と言っている成れの果てが今回の事件のような気がします。
ちなみに、最初に書いた藤田氏。その後
「必要ないヤツは死んだ方がいいんだっていうような死を誘発したり、事件を誘発するようなことは控えて欲しい、ということでお願いをしたんですけどね」
と説明していますが「一人で死んで欲しい」が「必要ないヤツは死んだ方がいい」に繋がる意味がわからないし、そう受け取ったとしたら、ちょっと頭悪いと思う。
参考記事
「死にたいなら1人で死ぬべき」論争が拡大 「正論」VS「非難控えるべき」著名人も参戦
https://www.j-cast.com/2019/05/30358829.html?p=all
コメント
Dr. Qdechさん、こんにちは。
私がこの論争の最初の藤田氏の記事を読んだ時は違和感はありましたが
やっぱり正論に思えたので「よくある心配性の人の記事」と思ってました(笑)
Dr. Qdechさんの記事できちんと整理できたので良かったです。
この件で私なりにぼやっと考えたのですが、まず、藤田氏自身も犯人に対して
「死にたいなら一人で死ぬべき。」
と思ったんじゃないでしょうか。志らくさんに同意したと言いますか。
でもすぐに「そんなこと考えるなんてッ!オレはなんてひどいヤツ!」と
思ったかどうかはわかりませんが(-_-)おそらく自動的に
(自分の考えを帳消しにするために?)
「引きこもりをかばってあげなければ!」
という方向に進んだので一見、正論のような主張になったのではないかな?と。
でも根底には(引きこもり=必要ないヤツ=死んだ方がいい)という信念があるから発言が支離滅裂になってるのかもと思いました。
以上は私の妄想ですが、結局、自分の中で善悪の判断をして空回りしてるだけで、発言した相手のことや他人のことなんて考えてないと思います。
Dr. Qdechさんの「人に対する愛や信頼が感じられない」という部分にとても納得しました。
私自身、ずっと頭の中でこんな感じのことをして空回りしてたなーと思います。
私は自分から人や社会に関わることをしないで「居場所がないのは周りの人や社会のせい」と思ってたので、気がつくと人に変な絡み方をしてたかもしれないです(・ω・)
そもそも心の中で何を思ってもいいんですけどね。
常識的に悪そうなことはなぜかすぐに考えたことさえ否定したくなるので不思議です。
自己啓発やエセスピにハマるとこれがひどくなるのでさらに不思議ですー。
ちよさん、コメントありがとうございます。
>結局、自分の中で善悪の判断をして空回りしてるだけで、発言した相手のことや他人のことなんて考えてないと思います。
そうなんですよね。感じるのは、犯人の立場に立って考えている(つもりになっている)自分への思いなんですよ。
「事件を誘発するようなことは控えて欲しい」
というのは、全くその通りなのですが、
「本当に悪魔を生み出す言葉だとしたら二度と言いませんが」
と、志らく氏が言っているように、「死にたいなら一人で死ぬべき」という言葉が犯罪を誘発するとは思えないです。
今までも何度か書いていますが、相手に寄りそうというのは、相手の行為を肯定することではないです。
そしてもうひとつ言えるのは、自分が「間違っている」「受け入れられない」と思うことの逆が正しいことだとは限らないということです。
今回の例で言えば、「一人で死ぬべき」という言葉が受け入れられなかったので、そういう言葉を発するべきではないということですが、ではその言葉を発することによって犯罪を誘発することにつながるかといえばそんなことはないでしょうし、逆に、犯行を思いとどまるということもあるでしょう(むしろ、その方が多いのではないかと思います)。
これっていろんなところで同じような問題があって、政治の世界では「ジミンガー」「アベガー」と、反自民・反安倍の皆様が、反対勢力を支持し出すのと同じ構造ですよね。もちろん、今の政権にも出来ていないこと、ダメな部分はありますが、じゃあ、立憲民主に政権取らせるの?って話で、旧民主党の体たらくを見れば、そんなことをしても上手く行かないのは目に見えています。
正しいか・間違っているか、その二元論の中で生きていると、「これはダメ!、だから違うものを選ぶのが正しい!」という思考に陥りがちだと思います。もっとダメになるかもしれないのに(笑)。
何はともあれ、脊髄反射ではなく、自分の頭で考えて生きていけるようにしたいものです。