何か書いてたら、個人宛のお手紙みたいになっちゃった(笑)。
心屋信者の方が読むと御立腹されるかもしれないので閲覧注意です。
割と好き勝手書いてます(いつもですがw)。
心屋仁之助氏が年末に投下した爆弾のことを、まだ結構、引き摺っているのか、また、それに関連したブログをUPしているようです。
ここで、彼はこう言っている。
僕は
いばらの道を歩く、
とは決めたんだけどそれでもやはり
「世間」にケンカを売りたいわけじゃないしやはり
「理解」して欲しいなと思う。でも、いまはムリだろうな、
とも思う。
心屋さん
あなたは、自分のことを「理解」して欲しいのか?
元々、別の記事ではこんなことを言っていたのではなかったか?
例えば僕なら
「なんか、色々SNSとかで
ひどく叩かれるんです」だとしような。
「で、どうしたいの」
「で、どうするの」うん
そんなやつら蹴散らして
ぶち殺してやるヘ( ̄∇ ̄ ヘ)ですね。
周りに理解して欲しいのか?それとも単に自分の言動を許容して欲しいだけなのか?
ちなみに、この「ぶち殺してやる」発言について、僕が以前書いたブログがこちら
ここから書くことは単なる想像です。
今まで、心屋さんに勢いがあり、彼の信者さんが熱狂的に彼を受け入れてくれていた時には、まだまだ強気でいられたのかもしれません。
まさに
そんなやつら蹴散らして
ぶち殺してやるヘ( ̄∇ ̄ ヘ)
というような感じでです。
しかし、今回の爆弾投下で、ひょっとすると彼が想像していた以上の批判と離脱があったのかもしれません。
それが
やはり
「理解」して欲しいなと思う。
という発言につながっているのかもしれませんね。
事実は、本人にしかわかりませんが。
しかし、その後に
でも、いまはムリだろうな、
とも思う。
と書いているのですが、その理由もよくわかりません。
僕に言わせれば「ムリだろう」と思っている彼がその状況を作り出しているとしか思えない。
というか、本気で「理解して欲しい」などとは思っていないようにしか見えません。
既に削除されてしまっていますが、先日、Facebookでキレていた八木龍平氏(リュウ博士)への言葉
なぜ発表したのかその理由も知らずに
想像だけでよくこんなこと上から書けるなこいつ
自分が公に発表したことに対し、その理由を誰もが知っているとあなたは思っているのだろうか?
「その理由も知らずに」
という言葉からは、誰もがその理由を知れるように説明を尽くしたとは、とても思えない。
逆に「自分は説明を尽くした」と言えるような努力をしたのなら、なぜリュウ博士に対して「その理由も知らずに」などということが言えたのか?彼に確認したのでしょうか?していないのなら、単なる決めつけでしかないですよね。
人と人は、言葉によってコミュニケーションを取ります。
いくら、ノンバーバルなコミュニケーションが重要だと言っても、他人は他人でしかないのです。
相手のことがわかっている、あるいは自分のことはわかってもらえている
と思っていても、それは厳しい言い方をすれば「思い込み」に過ぎません。
だからこそ、人は言葉を尽くし、相手のことを知ろうとし、自分の思いを説明します。
理解して欲しい、でもムリだろうな
などという言葉は、言い訳でしかなく、努力を尽くすこと無く相手にわかってもらえないなどという嘆きは、単なる子供の我儘でしかありません。
赤ん坊は、自分の思いを伝える言葉を持ちません。
だから、泣いたり怒ったり、笑ったり、場合によっては暴力で相手に自分の思いを伝えようとします。
僕は以前、「ハイコンテクストな集団」という記事の中で、
一般的に、ハイコンテクスト文化では、話し手の説明よりも、受け手の理解能力、共感能力が求められるため、論理の飛躍が発生すると言われます。つまり、
「わからないのは、理解できないあなたが悪い!」
になりやすいということです。
という説明をしています。
この記事の中でも書いていますが、心屋さん、あなたは自分と信者様たちという閉じられた集団の中で、「パッカーン」だの「前者・後者」だの「ふーん族」だの、仲間内でしか通じない言葉を使い、あたかも自分たちは、理解し合えていると思い込んでいるだけの集団を作ってきたのではないですか?
本当に、自分のことを理解して欲しいと思うのであれば、誰もが理解できる言葉で、自分の思い・考えを伝えていくような努力が必要なのではないかと思います。
そして、ちょっと話を戻しますが、もし「理解して欲しい」という言葉を使っているのが「自分の言動を許容して欲しいだけ」ということなのであれば、ちょっと厳しいような気がします。
以前、心屋信者の方と意見交換をした際にも、同じようなことを相手の方に言っています。
理解すること・されることは目的ではなく、納得いく話をするための最低限の条件だと思っています。そしてそれは合意・賛同するということではなく、相手の言っていることを正しく受け取り、自分の意図を正しく受け取ってもらうことだと思います。
— 本田秀行 NBIコンサルティング株式会社 (@itchidepon) March 25, 2019
「相手を理解する」ということは、「相手の主張に賛同する」ということとは異なります。受け入れるということとも違います。
理解されたからといって、相手の言動を許容するとは限りません。
ただ、誤解によって互いに傷つけ合うというよりはマシなのかもしれませんが。
もし、自分の言動を許容して欲しいというのが、真の意図なのであれば、自分の言動を振り返り、一度、ゼロベースで自分の教義を組み立て直すことも必要かもしれませんし、場合によっては、あなたは「民間を、ナメんなよ!って思う」かもしれないけれども、きちんと「どこかで誰かが打ち立てた心理学の理論」を学んだ上で再構築も必要なんじゃないかなって、僕は思います。利己主義に陥るのではなく、本当にわかり合いたいと思っているならね。
あ、そうそう。心屋さん。
「いばらの道」
っていう言葉を使うときは、単に「『自分が』苦労しそうな道」っていうんじゃなくて、普通の人が楽するために避ける道なんだけれども、「誰かが」より良い糧を得るために敢えて選んだ道というときに使った方が格好良いと思いますよ。
単に、自己利益を得るために進む道が「いばらの道」っていうなら、周りから見れば
「御勝手にどうぞ」
という感じだと思いますし。
まあ、自分が切り開いた道に続く人が幸せになるために…とか思っているのかもしれませんが。
追記:
いつもお世話になっている竹久友理子さんのブログでも、心屋さんの今回のブログについて書いていました。おもしろい考察だと思いますので、ちょっと読んでみると良いかなと思います。