想いと祈りと行動と…

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年度末進行でちょっとバタバタしていて、暫くブログをお休みしていました(言い訳w)

そうしている間に、東日本大震災から8年が経ち、今年の3月11からも既に数日経って、今更書くのもどうかなぁ…という気もしますが、自分が好き勝手に書いているブログだから、まあ良いでしょう(笑)。

震災の年、地震から1ヶ月程経った頃、ネット上のあちこちで

『頑張ろう』なんて軽々しく言うな

みたいな書き込みが散見されたことがあります。
当時を思い返してみると、確かにテレビやネット上で「がんばろう日本」とか、たくさん見ていた気がします。

その頃、自分がFacebookのノートに書いた文章を、ここにも転載しておきます。
Facebookのアカウントを持っていらっしゃるかたは、公開設定にしていますので、そちらも読んでみて頂けると、他の方々のコメントも読めるので、よりリアルに感じられると思います。
https://goo.gl/ucAyXu

がんばろうニッポンということ

最近ネット上で、「こんな状況で軽々しくがんばろうって言うな」みたいな書き込みを見る。

例えばこんなの↓

http://anond.hatelabo.jp/20110407001402

気持ちはわからないでもない。でも、やっぱりわからないのかもしれない。だって、自分は家あるし。

でも、やっぱり頑張ろうなんだよ。こんなときは。

ひょっとしたら同情して欲しいのかもしれないし、助けて欲しいのかもしれないけど、最後は自分が頼りだと思う。

そこから少しでもゆとりが出たら、目に見える範囲の人を、助けられる範囲で助けたら良いと思う。

がんばろうニッポンとか、突然でかいこと言われたって、当事者以外にとっては夢の世界ですよ。きっと。

オリンピックとかワールドカップで、日本の選手、チームを応援するのと同じ感覚。

でも、まあそれでも良いとは思う。一般の人はそんなもんだし。

頑張ろうニッポンじゃなくて、被災地以外の人は、取り敢えず、頑張ろう自分!で経済が低迷しないように頑張ってください。

そして、ちょっとゆとりができたら、被災地も助けてください。

僕は、このときも書いているように、自分のことを何とかするのは、最後は自分が頼りなんだと思っています。
ゆとりがあれば助けてあげれば良いし、自分にゆとりがなければ、まずは自分自身をしっかり見つめ、自分のことを頑張れば良い。
全員が自分のことを幸せにできれば、それだけで世界は幸せになると思います。
それは、「自分だけ良ければ良い」という利己主義ではなく、自己に対する責任と愛をもって自立するということです。自立できていない人が、他の人を助けるなんて、単なる傲慢のような気がします。

さて、僕はよくこちらのブログを読ませていただいています。

超個人的備忘録

先日、
「祈りは果たして意味を成すのか」
という記事が書かれていました。

「意味を成すのかどうか」ということで言えば、祈り自体が無意味ということは無いでしょう。現実世界に変化を与えるには、行動が必要であり、行動は想いが起点になります。
そういう意味で、

「被災地が早く復興しますように」
「世界の人々が幸せになりますように」

という祈り自体は、自分の行動の起点としては、とても正しい、重要なことなんだと思う。問題は、それが「行動の起点」となっているか…だと思います。

辞書で調べると、こう書いてあります。

いのり【祈り・祷り・禱り】

① 神仏に加護・救済などを請い願うこと。祈願。祈祷。祈念。 「 -をささげる」
② 能楽でワキの僧や山伏が数珠をもんで、襲ってくるシテの鬼女を祈り伏せる動きの激しい所作。大小太鼓ではやし、笛があしらいを吹く。祈り働き。「葵上あおいのうえ」「安達原あだちがはら」「道成寺」などにある。

(出典 三省堂大辞林 第三版)

例えば、

「私は被災地のために祈ります」

「私は被災地のために神頼みします」

だったらどうでしょう?特定宗教の、非常に信心深い信者のコミュニティの中でなら問題ないのかもしれません。しかし、そうではない場合は

同情するなら金をくれ!」(笑)

みたいな感想を持つのではないでしょうか。
まあ、そうは思わず、思いそのものが大切、心の繋がりを感じるという人たちもいると思います。「」という言葉もたくさん出ていましたよね。

でも、自分としては、やはり「想い」は現実に変えていって欲しい。ただ、祈る「だけ」で何かが変わると思っているのであれば、それは「引き寄せの法則」を信じて、思い、願うだけで願望が叶うと思っているのと、何ら変わらない。

では、なぜ「祈り」だけで終わり、その後の行動に繋がらない人たちがいるのか?

僕は、人の行動には3つの要素が必要だと思っています。

  1. 思っていることが「現実」になることに意味を見出している(本当にその来るべき現実を望んでいる)
  2. どのようにすれば、それを現実にできるか、自分の成すべき行動を知っている
  3. その行動により自分が利益を得る

それぞれ絡み合っている部分もありますが、まあ、大体はこんな感じです。

1.が成り立っていない場合。要するに、祈ってはいるけれども、本気でそれが叶うことを望んではいない、口だけの場合です。
「なんか、皆、そう言ってるし」とか「周りから良い人と見られたいし」などのパターンです。それは、行動に繋がるわけがない。

2.は、単に知らない場合もありますが、本当に望んでいるのであれば、今の時代、調べる方法はいくらでもありますし、実際には調べる気が無いことも多いでしょう。本当に望んでいるのであれば、何としても調べるでしょうから。

3.のパターンは、本当に多いと思うのですが「こうなったら良いな」とは思うけれども、それに見合う対価は支払いたくない場合。
以前“「べき」と思ってたって良いじゃん」”という記事の中で、コストについてちょっと書いたことがあります。

「〇〇すべき」、「△△ねばならない」、「~~はず」 そんな「べき」「ねば」「はず」という価値観に縛られている人は、少なからずいるようで...

改めて書くと、コストには

  1. 経済的コスト(お金)
  2. 頭脳的コスト(考えること)
  3. 時間的コスト(時間)
  4. 肉体的コスト(手間・労力)
  5. 精神的コスト(他人を気にすること、不安感)

といったものがあります。
例えば、「被災地が早く復興しますように」という思いに対して、
でも、お金は出したくないし、かといって、時間も、手間もかけたくない、何ができるか考えるのも面倒…ということであれば、なかなか行動には結びつきません。得られる利益に対して支払うコストが大きいからです。
一方で、得られる利益やコストというのが精神的なものになってくると、そこには多分に主観的なものが入り込んでくるため、人によって、その感じ方が大きく違ってきます。
得られるものが精神的な満足感ということであれば、極端な話、自己満足に過ぎないものであっても問題はなく、祈ることの目的が「自分が満足する」ことであり、実際に祈りの対象がどうなったとしても、本人にとって実はあまり関係ないのであれば、祈るという行為は(修行的な加持祈祷でもない限り)大きなコストを支払うこともなく得られるものの多い宝くじのようなものなのかもしれません。
祈った後に、自分の祈りが届いたような現実が見られれば満足感も大きくなりますしね。

もちろん、祈った本人の満足だけでなく、相手も祈られたことによって満足感を得られれば、傍から見ているだけの人がとやかく言う問題ではないのですが…。

でも、祈った後に何もせず、現実世界の何かが変わったとしても、恐らくそれは「祈りが届いた」のではなく「たまたまそうなった」のであり、後から理由付けしただけというのが殆どでしょう。

天は自ら助くる者を助く 人は成功を命じることはできない。
努力してこそ、成功を手にすることができるのだ。

(サミュエル・スマイルズ)

自らが動こうとせず、「誰かが何とかして」と言ってるだけの人の祈りが天に届くとは思えないですね。

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祈る女性