毎日、ネットを見ていると、スピやエセカウンセラーに嵌まる人のブログなどが相変わらず目に入ってくるのですが、そういう人たちって、どこまで行っても変わらないのかなぁ~という気もします。
このブログの中では、視野を広げることの重要性について何度か書かせて頂いていますが、今日、ちょっと思いついたのが以下の図。
フィクションなのですが、スピなのかカウンセリングなのかわからない「ちんさん」という人がいたとします。
ちんさんは、生き辛さを感じている人たちに
「何をやってもいいんじゃ!」
と伝えて、その人の心を一時的に楽にしてくれます。生き辛さを感じている人たちの中にもいろいろな人がいます。世の中の理不尽さに苦しんでいる人もいれば、傍から見れば普通に暮らしているのに、もっと楽に良い思いをしたいと思っている人もいます。
自分の人生の感じ方は、主観的なものなので、それは仕方ないことです。
ちんさんは「何をやってもいいんじゃ!」と言ってくれますし、信者からは、ちんさん自身もとても楽しそうな生活を送っているように見えています。
ちんさんの方しか見ていないので、周りの人たちや自分に比べ、とても羨ましい人生を送っているように見えます。
「何をやってもいいんじゃ!」という、ちんさんの言葉を信じて、それを実践すればちんさんのようになれるかもしれない!と思い、
「ちんさんサイコー!」
と、崇め奉るようになります。ちんさんの周りは、そんな人にあふれているので、自分の行動を疑うこともありません。
ですが、ちょっと視野を広げてみるとこんな風になります。
自分は目を逸していた周りの人たちは、ちんさんとその信者のことを
「あの人たち、谷底で何やってんの?」
と冷ややかな目で見ています。
視野が狭く、周りが見えていないと、自分がいる位置がわからず、自分が憧れているものがどのように周りから見られているかについても気づきません。
自分の周りの中で一番高い位置にいるというだけで、実際はド底辺だったとしても、井の中の蛙大海を知らずとでも言いましょうか、まあ、それはそれで幸せな人生かもしれません。夢の中にいるだけだと思いますが、一生、夢から醒めないと良いですね。
天橋立の股覗きは有名ですが、見るべきものを正しくみないと美しい風景が見えることはありますが、それは錯視・錯覚に過ぎず、空は空、地面は地面でしかないのです。
視野の狭さについて別の話をすると、動物や魚を捕まえるときに、罠を仕掛けるじゃないですか。
例えば、こういうものです。
鳥は、エサしか見えていないので、エサを食べに来たところで籠が落ち、まんまと捕まります。
罠に捕まる鳥は、美味いエサに食いつくというわけです。
「こんなアホな罠に自分が引っかかるわけない」
と思っている人が殆どでしょうが、実際にスピやエセカウンセラーに引っかかっている人たちはどうなんでしょうね?
もう一つの例を…
いろいろなところで語られる昔話です。大元のネタはバガヴァッド・ギーターだったか何だったか…?
猿がツボの中に入っているエサを掴んで取り出そうとすると、ツボから手が抜けません。エサを話せば手は抜けるのですが、一回得たエサを手放すことが嫌な猿は、手が抜けなくなって困ってしまいます。
スピやエセカウンセラーに嵌まる人もそうなのかもしれませんね。
(実は一般的な詐欺も同じだったりします)
一度、楽な気持ちにさせたり、楽しませたり、小さな悩みを解決してあげたり…。
本当は、そんな体験はどこにでもある取るに足らないものにも関わらず、そこを離れてしまうと二度と手に入らないんじゃないかという恐怖から手放すことができずにドツボにはまってしまう。
実は何も与えていない変形パターンとしては
「この話にピンと来たら、ぜひお申込みを」
とか
「レベルに達している人だけが手に入れるチャンスを与えられています」
みたいなもの。
実はピンとなんかきていないにも関わらず、もう手に入らないかもという心の良さぶりをかけたり選民意識みたいなものに働きかける手段。
実はカモとして選別されているだけに過ぎないんですけどね(笑)。
結局、つまらない罠にまんまと引っかかる人というのは、獣と同じレベルっていうことです。
人間として、視野を広く持ちましょう。感情に振り回されず、知性と教養で行動を決めましょう。
まあ、自分の人生は最終的には自分で決めるべきものですし、人に迷惑をかけなければ好きなように生きて頂いて構わないんですけどね。自己責任なので、どんな結果が待っていようとも、後から人のせいにだけはしないように…。
コメント
Dr. Qdechさん、こんにちは!
谷底に落ちると上がるのが大変です(苦笑)
ゆりさんのブログに「通りすがり」で書き込みしてた方が自分の思い通りにしてくれた人は波動が高く、冷たくあしらった(と彼女が勝手に感じた)ゆりさんは「波動が低い」と断じてましたね。
谷底にいると自分を承認してくれる人しか見えず、自分を否定する他人の声が耳に入らないというのをしみじみ感じた一件でした。
ちんさん(仮名)もブログでリア充写真と共に「こういう楽しみのために頑張って働くという気が君らにはないのかね。」とポロッと書いていたことがあります。
そこを強調すると信者が離れていくのかなぁと思いました。
谷底の人たちが「赤信号でも渡っていいー!!」と赤信号で横断歩道を渡って車にはねられないことを祈ります…。
ちよさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
>ゆりさんのブログに「通りすがり」で書き込みしてた方が自分の思い通りにしてくれた人は波動が高く、冷たくあしらった(と彼女が勝手に感じた)ゆりさんは「波動が低い」と断じてましたね。
うーん、あれはねぇ…(笑)。
波動とかの問題じゃなくて、コミュニケーションの取り方の問題だと思いますよ。
自分に都合の良い、心地良いコミュニケーションを取ってくれる人だけを評価するというのは問題ですが、僕はこのブログでも何度か書いているように、コミュニケーションが上手くいかないのは双方それぞれに責任があると思っています。
(別に、どんなコミュニケーションでも「キャッキャ、うふふ」になれば良いと言っているわけではありませんよ)
正直、「とおりすがり」さんと竹久さんの最初のやり取りを見たとき、こういうことにならなければ良いなぁと思っていたのです。
彼女が欲しがっていた文章には僕もアクセスできるので、情報をあげようかとも思ったんですけど、それもおせっかいかなーと放っておきました。
こういうことを書くのは、本当に不遜で不敬なことではあるのですが、例えば、今の上皇陛下が同じお願いをされて、同じような態度で断ったかといえば違うような気はするんですよね。
それは「とおりすがり」さんが、
「本当に波動の高い人は、断る時も受け入れる時も、必要以上に人を傷つけることがなく、赤の他人の話に耳を傾け、その人の気持ちや思いに愛を見い出せる人」
と言っているのに賛同はします(波動が高いかどうかというより、正しいコミュニケーションを取れるという意味でです)
以前、竹久さんのブログが心屋信者のコメントで炎上したときに
「言葉は感情に、感情は言葉に影響されます。
あまり強い感情に翻弄されませんように…」
というコメントを残しておいたことがあります。良くも悪くも、言葉の使い方は現実に作用し、自分にも相手にも影響を及ぼすものです。
境界上にいる人に対しては、自分の一言によって、相手の今後を決めてしまうことになりかねないので、丁寧に使っていく必要があると思っています。
(自戒を込めてw)
で、この件に関しては、僕もちょっと思ったことがあって、それが先日の
「知識のシェアと幸福感」
という記事に繋がっています。
内容をぼかしてありますし、ちょっと難し目に書いてありますのでわかりにくいかもしれませんが、もし、御興味があれば、改めて読んでみて頂けると良いかなと思います。
Dr. Qdechさん、お返事ありがとうございます!
〉「本当に波動の高い人は、断る時も受け入れる時も、必要以上に人を傷つけることがなく、赤の他人の話に耳を傾け、その人の気持ちや思いに愛を見い出せる人」
というのは私も賛同していて、でも書いてる「とおりすがり」さんは実践してるわけではないよねーと思ってました。
もちろん、正しいコミュニケーションという意味で。
ゆりさんは相手を選んで言葉遣いを変えてると以前書いておられた気がするので相手の波動に合わせてるのかなと思ってました。
しかし考えてみると相手に合わせてわざと波動を低くする必要があるのかな?ってDr. Qdechさんのコメントを読んで思いました。(正解はないと思いますが)
私自身、言葉で表現するのが苦手で「思いを汲んで欲しい」ところがあります。
私の周りも正しいコミュニケーションが苦手な人が多いので言葉の裏を読むのが当たり前になってましたが、今こそ自分から正しいコミュニケーションをすることが大切だと改めて思いました。(^_^;)
紹介いただいた別記事についてはまさかのつながりだったので驚きです。
内容は私にはやっぱり難しいですが、折にふれ繰り返し読んでみようと思います。
(「囚人のジレンマ」もこの記事で初めて知りました。)
ちよさん、こんにちは。
>でも書いてる「とおりすがり」さんは実践してるわけではないよねーと思ってました。
これも正しいです。
「とおりすがり」さんは、自分の想いが叶った時点で、そちらに注目すべきでしたし、百歩譲って、情報を入手できたのを報告したかったとしても単に「他の人から情報を頂きました」ということに留め、竹久さんに対する批評など書く必要は無かったと思います。それは単なる感情の吐露でしかありませんよね。
竹久さん側も、とおりすがりさんが感じた感情はエゴの問題などということは、別に書く必要も無かった。
以前、「ハイコンテクストな集団」という記事で、そのような集団では
「わからないのは、理解できないあなたが悪い!」
ということになりがちだということを書きました。
要するにコミュニケーションの結果を相手に委ねてしまうということは、コミュニケーションミスの原因になり得るということです。
相手に合わせて表現を変えることは当然ありますが、それは相手がどのような反応をするか、きちんと想定した上で変えるべきであって、単に相手と同レベルに合わせるということではないと僕は思っています。
つまり、相手の理解力が低いなら、より一層注意深く表現方法を考えていかないとコミュニケーションは成り立たないということです。
「コミュニケーションのあり方」という記事にも、コミュニケーション・スキルの組み合わせについて書いてありますので、時間があるときにでも読んでいただければ。
「思いを汲んで欲しい」という気持ちは当然の感情で、それ自体、悪いことではないと思いますが、もし、それが叶わなかったとき「自分の伝え方が悪かったのか」あるいは、相手に自分の気持を汲んでもらえないのは、相手が何を考え、どんな気持ちでいるのかを想像し、相手の立場に立って考えてみるというのも大切なことだと思います。それが、視野を広げてみるということです。
>しかし考えてみると相手に合わせてわざと波動を低くする必要があるのかな?ってDr. Qdechさんのコメントを読んで思いました。(正解はないと思いますが)
ちょっと思ったのですが、例えば、政治の世界で言えば、野党がギャースカ言っているのに対して、同じようなレベルで返していると、お隣の国の国会みたいに常に乱闘騒ぎみたいになっちゃうと思いますよ。
高いレベルに合わせようと努力するのは、ぜひやっていくべきだと思いますが、相手の低いレベルに合わせてしまうというのは、混乱と混沌を生み出すだけのような気がします。