twitterを見てたら、フォロワーさんの呟きで紹介されていたので、ちょっと読んでみた。
この人の顔があまり好きじゃないので(失礼w)、普段はこの人のブログなんか全然読まないのだが、ざっと読んでみて、やっぱり意味が良くわからなかった(笑)。
なので、そこに書かれていた1フレーズだけを取り上げて、ちょっとだけ自分の考えを書いておこう
疑うってのは浅い関係なんだよね。
これは全然違うと思う。
疑うというのは浅い関係ではない。
ちょっとわかりにくいかもしれないので、逆を考えてみよう。
相手を信じるというのは深い関係なのか?
以前、「信用と信頼と詐欺と教祖」というブログを書いたことがある。
相手を信用するというのは、相手と深い関係にあるから信用できるわけではない。
詐欺師だって、見事に相手を信用させ、信頼を得ているのだ。
どういうことかというと、相手を信頼している「自分」が、どこまで相手のことを深く「知ろうとしているか」が、本当の意味での信頼に繋がるのだろうということだ。
相手の本当の姿を知ろうとせず(疑いもせず)、盲目的に相手を受け入れようとするのは、単なる「思考停止」であり、相手に対する「無関心」でしかない。
なぜ、そのように思考停止し、無関心であることができるのか?
それは相手との関わりの中で、自分自身の行動が「相手と自分」にどのような影響を及ぼすかについて無関心であり、無責任であるからに他ならない。
マザー・テレサの言葉に
「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」
というものがある。
相手に騙されることよって自分が酷い目に遭う可能性があるということに対して無関心であるのは、自分自身に対する愛情に欠けているということであり、相手が罪を犯す可能性のあることに無関心であるということは、そのまま相手に対する愛情に欠けているということである。
例えば身近な誰かが心配そうな顔をしている時、何かあったの?と声を掛けたとして、相手が
「何でもない。大丈夫」
と言ったなら、あなたはそれをそのまま受け入れるだろうか?
人は本当に悩んでいる時程、本心を周りに見せない。
そんな相手が発した言葉を疑いもせず、そのまま表面的な言葉を受け入れるような関係が浅い関係だろうか?
相手の表面しか見られない、正に「浅い」関係であれば、相手の言葉を疑わずにそのまま受け入れるかもしれない。
「浅い」というのは、人との関係性だけではないのだ。
「浅い」人間は、相手の身につけている持ち物や単なる美醜、あるいは学歴、職業、収入といった表面的なものでしか物事を見られない。
人との関係が浅い…と考えたときは、むしろ一度立ち止まり、自分を振り返って、自分の思考や物の見方が浅いのではないか、と考えてみるべきだ。
以前「素直であること」というテーマでブログを書いたことがある。
「誰かの都合の良い世界観に自分の価値観を合わせること」
で、自分自身の自由を奪ってしまわないように気をつけた方が良い。
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