調和と均質化について

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

よく読ませて頂いているブログで、以下のような記事がUPされていました。

色々と参考になることが書かれていましたが、僕とは意見が異なる部分もありましたので、補足&自分の考えの整理の意味も込めて、ちょっと整理しておこうと思います。

この記事の中では「調和の時代は終わった」という分析ですが、僕の主張の大前提として、僕自身は、やはりこれからこそが「調和の時代の始まり」と考えています。

僕がこの記事の中で違和感を感じるたのは、グローバリズムへの傾倒を「調和」としているところです。
僕はグローバリズム、世界標準は、調和ではなく同質化・均質化(Homogenization)と考えています。

これは、先日書いた「普通と特別とそれらの価値」という記事の内容とも関連するのですが
同質化や均質化は、調和(Harmony)とは似て非なるものであり、そこには他者に対するリスペクトがなく、単なる異物の排除に向かいます。

たまにコメントを書かせて頂いているこちらのブログで、興味深い記事がUPされていました。 【不幸の始まり】特別を重視すること 昨日、生...

ひょっとすると「調和」というよりも上に書いたように英語の「ハーモニー」という言葉を使った方が想像しやすいかもしれません。

単一の音階、メロディがいくつ重なっても深みのあるハーモニーにはなりません。
同一の平坦な音が鳴っているだけです。
しかし、複数の音階、音程やメロディが重なると、そこには美しいハーモニーが現れ、同一の音だけでは表現できない音楽が生まれます。
そして、ハーモニーを生み出す音の組み合わせは単一ではなく、場合によっては不協和音ですら音楽になり得ます。
それを考えると、この調和は正しく、この調和は間違っているなどということも言えないのです。

ただひとつ言えるのは、例えば合唱を行う時、自分のパート以外の音にも耳を傾けるということが美しいハーモニーを奏でるのには必要であり、それなくして、単に自分の受け持っているパートの音を出すだけでは、なかなか上手く行かないのではないかと思います。

以前のブログでも書きましたが、今は多様性が求められている時代です。
それは、小さな集団でも当然そうですし、僕は、恐らくは国家という単位でも、同様の動きになるだろうと想像しています。
そして、多様性が成立するためには、お互いのあり方を尊重することが最重要になると思います。

日本の歴史を考えてみると、この国では元々「神仏習合」という宗教現象から仏教が取り込まれてきたり、12月にはクリスマス、お正月には神社、葬式はお寺など、様々な宗教行事が違和感なく生活に取り込まれてきています。

それを考えると、これからの国家間の調整、調和には、日本は重要な役割を果たすのかもしれません。
少なくとも、何でも「自国起源」と主張し始めるようなことはしない(笑)。


最初に紹介したブログでは、「波動乖離」という言葉を使って棲み分けについて語られていました。
これについては、ちょっと今西進化論にも似ているかなという気がします。

ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、今西錦司氏が提唱した進化論で、ダーウィンの進化論に比較して「棲み分け」の考え方がその特徴とされています。
(今では支持者も減っているということも聞きますが、僕は進化論というよりも哲学として興味深いと思っています)

今西進化論における棲み分けの例としては、例えば以下のようなものがあります。

ヤマメとイワナは、いずれも川魚で、生息できる水温域は一部が重なり合っています。それぞれが単独で生息しているときには、生息できる水温域いっぱいに広がっています。

ところが、ヤマメとイワナが両方同じ川に棲んでいる場合、ある一定の温度を境にそれより上流がイワナ、下流がヤマメの生息域として「棲み分け」されます。

つまり、ヤマメとイワナは互いの存在を「認めて」、競争を回避し、それぞれの住処を制限するように強調しながら生きていくようになります。
一方が他方を駆逐したり、呑み込んだりということではなく、進化の過程ではこのようなことが起こりうるというような理論です。

これはこれで、協調の形態のひとつと言えると思います。必ずしも協力関係でなくても、生息域を分離することにより、お互いを認め合いつつも互いに与える可能性のある悪影響を最小化するということも、まさに進化の過程ではあり得るのだろうと思います。
それは、お互いを比較し優劣をつけようという動きの中では起こりえません。あくまでも相手に対するリスペクトが必要であり、相手を見下したり、逆に自分を卑下するような関係性の中では起こり得ないように思います。


最後に余談をひとつ。

最初のブログの中では、江戸末期の開国以来、日本が進んできた道について書かれていました。

日本の歩んできた道の善悪や成功・失敗については、歴史を学んだ上で各個人が判断して頂ければ良いと思いますが、大東亜戦争開戦時に有名な詩人であり画家である高村光太郎(「道程」や「智恵子抄」で有名な人です)が以下のような歌を詠んでいます。

十二月八日

高村光太郎

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ サクソンの主権。
この日東亜の陸と海とに否定さる。
眇〔びょう〕たる東海の国にして
また神の国たる日本なり。
そを治〔しろ〕しめたまふ明津御神〔あきつみかみ〕
世界の富を壟断〔ろうだん〕するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国に於て否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙〔そうが〕を摧〔くだ〕かんとす。
われら自ら力を養ひて ひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する
十二月八日を記憶せよ。

僕は、これまた以前に「自分を愛するということ」という記事で書いていますが、自国中心主義、民族中心主義みたいになると問題だと思っていますが、自国を愛するということがお互いをリスペクトするための最低条件だと思っています。

いくつかブログを持っているので、どこに書こうかなぁ~と思ったのですが、取り敢えずこのブログに書いておこう。 昨年12月に、お隣の韓国が...

自己を保つこと無く卑屈になることからは、協調などはとてもできず、単なる事大主義に過ぎないのではないかと思います。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学・思想情報へ
にほんブログ村

ブレーメン